佐賀県の名護屋城です。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の拠点として築かれた城として有名です。
子供の頃から地元の名古屋城と同じ読み方のこの城をいつか訪れてみたいと思っていました。
しかし、交通の便が必ずしもよくないため、福岡まで行くことはあってもなかなかこれまで行く機会に恵まれませんでした。
今回はじめて訪問することができて感無量です。
いつものように簡単に名護屋城の歴史からご紹介したいと思います。
天正18年(1590)豊臣秀吉は小田原征伐によって北条氏を滅ぼし、天下統一を実現します。
次に秀吉が目を向けたのは明(中国)、天竺(インド)であり、大陸への侵攻です。
秀吉は朝鮮に服属と明征伐への道案内を命じますが、当然朝鮮は拒絶します。
これに怒った秀吉は唐入りを宣言し、天正19年(1591)8月肥前の地に前線基地として名護屋城の築城を命じました。
壱岐・対馬を経由して朝鮮半島への最短ルートという立地と大量の船団を出港させるのに良い港があったことからこの地が選ばれました。また、秀吉の出身地名古屋(当時は那古野)と音が同じだったため選ばれたという説もあります。
縄張りを黒田孝高こと官兵衛が担当し、黒田長政、加藤清正、小西行長、寺沢広高ら主に九州の諸大名が普請奉行として携わりました。
10月から突貫工事が行われ、翌天正20年(1592)3月には主要部分が完成したといわれます。
甥の秀次に関白の座を譲って、自らは太閤となった秀吉は、同年4月名護屋城に入り、朝鮮への出兵を命じ、約16万の兵士が海を渡りました。これが文禄の役の始まりです。
日本軍は漢城(現在のソウル)を占領し、さらに内陸へと進軍しましたが、朝鮮の水軍と明の援軍による反撃にあったため、戦線は膠着、翌文禄2年(1593年)4月いったん休戦となりました。
その後朝鮮との講和交渉が決裂すると秀吉は再び出兵を決め、慶長2年(1597)2月から再び14万人の大軍を朝鮮半島へと上陸させました。これが慶長の役です。
翌慶長3年(1598)8月18日、秀吉が亡くなると日本軍は朝鮮半島から撤退し、名護屋城もその役目を失い廃城となりました。築城からわずか7年でその姿を消したまさに「幻の城」といえます。
前回唐津城の回で書いたように、江戸時代に入ると、初代唐津藩主・寺沢広高によって、名護屋城の建物や石垣は、唐津城の築城に転用されたと考えられています。
さらに寛永14年(1637)に起きた島原の乱の後には石垣なども徹底的に破壊されます。
これは島原の乱の際、一揆軍が廃城だった原城(長崎県南島原市)に立て籠もり、幕府軍はその鎮圧に悩まされたことから、廃城であった名護屋城が、同様に敵に再利用されることを恐れたためだったと考えられています。
名護屋城の縄張りは中央最上段に本丸を置き、中段にはそれを取り囲むように二の丸・三の丸・遊撃丸・東出丸・弾正丸・水ノ手曲輪があり、下段に山里丸・台所丸など多くの曲輪が配置されています。
門は大手口の他5か所あり、北側には鯱鉾池と呼ばれる水堀がありました。
本丸には5重7階、金箔瓦が葺かれた天守が建てられました。
最盛期の城域はなんと17万平方メートル(東京ドーム36個分!)にも及び、城の周囲3km内には130以上もの諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が城下に集まり、京や大坂をもしのぐといわれる賑わいを見せたといいます。
唐津城からレンタカーで30分ほど。現在の唐津市の北端に名護屋城跡はあります。
広大な城跡に入る前に大手門口の南側にある「名護屋城博物館」で情報収集します。
名護屋城や文禄慶長の役に関する展示が多数あり、パンフレットなどもここで数種類ゲットできます。
しかも、驚くことにこの博物館はなんと入場無料なんです。
これだけ大規模な博物館で無料というのは、他に聞いたことがありません。
「はじまりの名護屋城」
説明が必要かもしれません。佐賀県では、「尾張(おわり)の名古屋城」に対して、「はじまりの名護屋城」のキャッチコピーをつくってアピールしています。
ただの洒落ではなく、家康が近世城郭である名古屋城の築城を命じたのは慶長14年(1609)。
その17年も前にこちらの名護屋城は完成していたのですから、こちらが本家のナゴヤ城と主張されるのは当然なのです。
草庵茶室
博物館のエントランスに原寸大で復元されています。
藁葺屋根と青竹でつくられた侘びさびを感じさせる簡素な茶室です。
秀吉は山里丸にこのような茶室を建てて、陣中で茶の湯を楽しんだといわれています。
昨年3月から公開されています。
展示ルームにも写真OKという展示物があったので、いくつかご紹介します。
肥前名護屋城図屏風
展示されているのはもちろん模写ですが、天守、櫓はじめ、城内の様子が詳細に描かれています。
周囲の丘陵には各大名の陣屋がひしめき、城下町は全国から集まった物資や人々で大変な賑わいを見せている様子がわかります。
VRアプリもこの屏風絵をもとに再現されています。
安宅船(あたけぶね)
文禄慶長の役で日本軍が用いた軍船です。
これも屏風絵に描かれたものをもとに10分の1のサイズで再現されています。
船の上に二階建ての櫓が載り、まさに動くお城。後世の戦艦といってもいい造りです。
亀甲船(きっこうせん)
右側は朝鮮水軍の軍船模型。大きな帆が特徴的です。
ジオラマ
各地のお城でジオラマを見ましたが、これは最大級の大きさです。
黄金の茶室
派手好きの秀吉を象徴するものといえば、やはり「黄金」
この「黄金の茶室」は秀吉が自らの権威と財力を見せつけ、見る者を圧倒する、政治・外交上の重要な舞台装置でした。
秀吉は、この茶室を大坂城から名護屋城へ運ばせ、茶会だけでなく朝鮮使節の応接などに使用したという記録が残されています。
広さは三畳で、柱や敷居・鴨居や壁・障子の骨もすべて金。
さきほどエントランスで見た「草庵茶室」の対極ともいえるのが、この「黄金の茶室」です。
予約をすれば実際にこの茶室でお茶を楽しむこともできるそうです。
名護屋城では「バーチャル名護屋城」というアプリを使ってVRで復元された天守や櫓の姿を見ながら歩くことができます。これは先ほど見た「肥前名護屋城図屏風」を基に、天守や本丸の設計図を書き起こしCG化されたものです。
もちろんスマホで見ることもできますし、この博物館でタブレット端末を借りることもできます。
それでは、博物館を出て、いざ城跡の見学に向かいます。
観光案内所
入城料は無料ですが、案内所で歴史遺産維持協力金を100円払うと、オリジナルマップがもらえます。
陣跡配置図
3km四方に築かれた諸大名の陣跡マップ。
徳川家康、前田利家、伊達政宗、黒田長政、上杉景勝、島津義弘、加藤清正、福島正則、石田三成、・・・戦国武将オールスターがここに集結しました。
大手口
左側には高石垣がそびえます。石垣の上は三ノ丸になります。織豊期の後期らしく積み方はいわゆる野面積みで石は大小入り混じっています。高さは最大で10mほどでしょうか。当時はもっと高かったと思われます。
ところどころ崩れているので、なるべく石垣から離れたところを歩きます。
振り返ってみると左手には櫓台がありました。
VRで見るとこんな感じだったのでしょう。
登城坂を上がっていくと、右手に曲輪が見えてきました。東出丸です。
東出丸内部
東側の警護を担っていた場所で、別名「千人枡(せんにんます)」と呼ばれるとおり、1000人を収容する曲輪がありました。
東出丸から見下ろす城下町方面
奥はイカで有名な呼子で、呼子大橋が見えます。
手前の森が「徳川家康陣屋跡」
周囲には各武将の陣屋が建ち並んでいました。
三の丸に入りました。
崩された石がゴロゴロと転がっています。
三の丸
本丸に続く広い曲輪で当時は周囲を多聞櫓が囲み、石碑の場所には御殿が建っていました。
三ノ丸側の本丸石垣。角が破壊されています。
これは、隅部分を崩されると石垣は容易に修復できなくなるため、人為的に城を使用不能にする場合、優先的に破壊されました。
こういった「破城」の跡が何か所も見られるのが名護屋城の特徴です。
井戸
三ノ丸中央部には城内で唯一残された井戸跡があります。
名護屋城では城内の人数に対して井戸が少ないなど、慢性的な水不足に悩まされていたという記録があります。
その2に続きます。