昨年の10月に九州のお城を5つ、レンタカーを使って回ってきましたので、順次レポートしていきたいと思います。
まず、最初は佐賀県の唐津城です。
唐津城は、関ケ原の戦いの後、慶長7年(1602)から寺沢広高により、7年の歳月をかけて築城されました。
唐津湾に突き出た満島山上に本丸を置き、その西側に二の丸、三の丸が配され、三の丸の周囲には城下町が造られました。
築城には豊臣秀吉の朝鮮出兵の拠点となった名護屋城の部材が多く使われたといいます。
広高は築城と並行して、河川の改修、新田開発、捕鯨、唐津和紙の生産にも力を注ぎ、唐津の基盤をつくりました。
また、塩害防止のために浜にクロマツを100万本植林し、これが日本三大松原のひとつ、虹の松原の始まりとされています。
しかし、2代目堅高の代の寛永14年(1637)に島原の乱が起こり、乱の原因をつくった寺沢家は断絶、一時唐津藩は天領(幕府の直轄地)となりました。
その後は大久保、松平、土井、水野、小笠原といった譜代大名が相次いで城主となり、明治を迎えます。
唐津城には歴史上天守があったという記録はありませんが、昭和41年(1966)になって5層の模擬天守が建てられました。
お城の東西に広がる砂浜が鶴が翼を広げたように見えることから舞鶴城とも呼ばれています。
最近では日本のモンサンミッシェルという呼び方もあるそうです。
唐津城二の丸の駐車場に車を止め、いったんお城と反対側、松浦川にかかる城内橋を渡って対岸から唐津城を眺めます。橋の脇には立派な「唐津城」と金色で書かれた立派な石碑。ここが唐津城の撮影絶景ポイントです。
再び橋を渡って唐津城へ向かいます。橋の途中から城内側に櫓のようなものが見えます。あの場所に当時「船入門」と呼ばれる唐津城に船で出入りできる門がありました。
唐津城下町絵図
城山の麓には当時の唐津城の絵図がありました。江戸末期小笠原氏時代の様子を描いたもので、現在は城の東と南に橋がかかっていますが、当時は城の三方を海と川に囲まれ、海城の様相でした。
現在の唐津城周辺図
南北が逆ですが、東側(虹の松原)と南側に橋がかけられています。
現在の公園マップ
本丸が山頂の上段と中段の二段構成になっており、二の丸は山麓になります。当時二の丸御殿が建っていた場所には現在早稲田佐賀中学・高校が建っています。
本丸へは歩いて登ることもできますが、お城には珍しいエレベータに乗ることにしました。二の丸から本丸まで1分ほどで到着します。料金は100円。
ケーブルカーと違って外は見えませんが、このエレベータは斜めに進みます。
あっという間に本丸に着きました。
化粧櫓
本丸には天守の他、模擬櫓と櫓門も再建されています。
中央付近に建つ巨大な石碑「唐津城址」
天守
天守台は築かれましたが、天守そのものは建てられなかったといわれています。
なので、いわゆる模擬天守なのですが、屏風絵に残された名護屋城天守をモデルにしたもので、海辺に建つお城として唐津の町になじんでいます。
旗竿石(はたさおいし)
天守の前には中央に穴のあいた石が置かれています。これも元々は名護屋城跡にあったもので、朝鮮出兵のため集結した各大名たちの軍旗等を掲揚するための穴が空けられたものです。しかし、どの武将の陣で使われていたものかは不明だそうです。
天守内部は5階建ての資料館になっています。内部も近年リニューアルされたので綺麗です。唐津といえば、「唐津くんち」も有名ですね。
南蛮大砲
天守の中はほとんど撮影禁止でしたが、唯一これは撮影可でした。廃城時、本丸に残されていた鉄製の砲筒です。
2代藩主堅高のとき、突如唐津湾沖に現れた異国船(ポルトガル船)を近隣の平戸藩、福岡藩とともに攻撃し、沈没させたといわれています。
で、この大砲はその異国船から引き揚げられた南蛮船のものという言い伝えですが、正式な記録が唐津藩はもちろん、福岡・平戸藩にも残されていないので実際、なぜこの大砲が唐津城に残されているかは不明のままです。
最上階の展望台からの眺望
360度のパノラマ。まさに絶景ですが、当時の唐津城の殿様はこの高さからの光景は見ていません。
東方面
左は日本海唐津湾、右は松浦川。奥の方に弓状に虹の松原が広がっています。
手前の川は築城時に人工的に掘られたものだそうです。
北方面
唐津湾には離島が多くあります。左奥に見える陸地の奥には豊臣秀吉が朝鮮出兵の時に築いた名護屋城がありました。
櫓門
では天守を出て、降りることにします。下りはもちろんエレベーターを使わずに歩きます。こちらの櫓門も再建です。模擬天守が建てられた同じ昭和41年に建てられたものです。
天守台石垣
本丸中段から天守を見上げます。
平成20年(2008)から6年かけて天守台石垣の修復工事が行われました。どうりで積み立て?のような綺麗な石垣です。
弘前城のように曳家などはせず、天守を載せたまま石垣だけを取り外して積み直す工法が使われました。
井戸
特に説明板はありませんでしたが、屋根は別として当時からあった井戸だと思われます。
藤棚
本丸中段には巨大な藤棚があり、5月には満開のフジの上に天守が乗ったように見えるという絶景スポットになっています。
斎藤茂吉歌碑
アララギ派の代表歌人。作家北杜夫の父としても知られます。
「松浦河月あかくして人の世のかなしみさへも隠さふべしや」
大正9年唐津市内の旅館で病気療養中に詠んだ歌だそうです。
本丸中段の石垣
決して規模は大きくありませんが、独特の雰囲気を持つ石垣です。
途中、段曲輪のような平らな場所が左右にいくつも作られていました。
櫓か番所のようなものがあったと推測されます。
多宝塔
大手登り口左手にあります。多宝塔とは、法華経の信仰に由来するもので、塔身に釈迦如来と多宝如来のお姿を掘り出したものです。
この多宝塔の仏面は深くえぐりとられた格好になっています。
仏像の顔面を石で三度叩けば、「願いごとが叶う」と言われています。
少しだけ城下を回ってみました。
時の太鼓
ニの門堀沿いの公園に鐘楼が高くそびえています。
これはもちろん復元ですが、もともとは藩政時代に登城時刻などを知らせるために太鼓を叩いていたいわゆる太鼓櫓です。
現在はからくり時計となっていて、毎時0分になると、太鼓の音とともに中から裃を着た武士人形が出てきて太鼓を打ち鳴らします。残念ながら中途半端な時間だったので見られませんでした。
肥後堀と模擬櫓
向こうに見えるのは唐津市役所。
三の丸と更に外側の外曲輪の間に掘られた水堀で、廃城後に埋め立てられていましたが、一部復元されています。
唐津城は天下普請ではありませんが、九州各地の大名の助力を得て築城したものといわれています。
そのため、柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が今でも地名などに残されています。
虹の松原から望む唐津城
駐車場が見当たらなかったので、某ホテルの裏から海岸に出ました。
反対側には見渡す限り海岸と松林が広がっています。
さすがは日本三大松原のひとつ。
ちなみにあとの二つは静岡県の三保の松原、福井県の気比の松原ですが、これで私も三大松原を制覇したことになります。
次回は名護屋城をレポートします。