ぎふ可児大河ドラマ館と小和田先生講演会、そして明智城 | おおとり駆の城日記
新型コロナウイルスに関する情報について

おおとり駆の城日記

子供の頃からお城好き 今までに巡ったお城の感想 その他どうでもいい趣味のことなどあれこれ綴っていきます

秋晴れになった1114日岐阜県可児市の花フェスタ記念公園で「戦国秋の大感謝祭」が開かれました。


現在公園内では「麒麟がくる ぎふ可児大河ドラマ館」が開館中ということもあり、ドライブがてら出かけてきました。

今回のお目当てはイベントの中で開かれる小和田哲男先生のトークショーです。

入場は無料ですが、整理券が必要ということで開始時間の2時間前に公園に着きました。


さすがに小和田先生の人気は高いです。すでに大勢の行列ができていました。

無事に整理券をゲットして、時間もたっぷりあるので、さきに入口近くの大河ドラマ館を見学することにしました。



入口に手書きで大河ドラマの歴史についてまとめられていました。

意外にも今まで一番多く大河の主役として取り上げられたのは信長でも秀吉でもなく、大石内蔵助!もっとも一番最近で忠臣蔵が題材となったのは平成11年の「元禄繚乱」ですから、もう20年以上も前なんですね。


ドラマ館の中には出演者の衣装や光秀の館のジオラマ、各話ストーリーの紹介パネルなどが展示されていましたが、正直夏に訪れた岐阜市の大河ドラマ館と比べるとかなり見劣りする内容でした。

しかもほとんどが撮影禁止だったので早々にドラマ館を後にして公園内を散策することにしました。

花フェスタ記念公園は1995年に開催された「花フェスタ岐阜」の際に整備された公園で一年を通じて、季節ごとの花や緑が楽しめる岐阜県内でも最大級の広さの公園です。

特にバラは、世界最大規模の品種数が植えられています。


今回は花を見ることが目的ではありませんでしたが、イベントホールの前には大きなコスモス畑がありました。



ちょうどこの週末に摘み取り体験が行われるところだったので、この日が最後の見どころとなりました。


昼食を済ませて、イベントホールの中で開始を待ちます。

ステージでは武将隊による演武が行われていました。


コロナでイベントが自粛していた間はこの人たちもお仕事がなかったでしょうね。


さて、小和田哲男先生の登場です。

小和田先生は現在放送中の「麒麟がくる」をはじめ数多くの大河ドラマ(戦国時代)の時代考証を担当されています。

時代考証とは脚本家やプロデューサーと相談して、ドラマの設定やセリフがその時代の人物、言葉、出来事などに照らしておかしなところがないかをチェックするのが主な仕事だということですが、そこはやはりドラマなので、ある程度想像や架空の出来事も入れなければ面白くならない、と史実と創作のさじ加減が難しいとお話しされました。

例を出されたのは小谷城は落城したときは燃えていないことがわかっていますが、「江」では天守閣が燃やされて落城したように描かれたこととか、「功名が辻」では本能寺の変の回で舘ひろしさん演じる信長が鉄砲で応戦したとか、明らかに史実と違う演出があると、放送後すぐに自称歴史家の方々からは多くのクレームが寄せられるそうです。

確かに今回の「麒麟がくる」でも架空の登場人物である堺正章さん(望月東庵)や門脇麦さん(駒)の出番が多すぎるとネットで叩かれています。ドラマなんだからそんなに目くじら立てなくてもと私も思います。

一方で最近の研究成果も取り入れられていることもお話しされました。

たとえば、

・斎藤道三の国盗りは親子二代にわたるものだった。

・帰蝶は信長に嫁ぐ前に守護の土岐氏の一族と結婚していた。

・松永久秀は足利義輝の暗殺に直接手を下していない。

・金ヶ崎の退き口では明智光秀も木下藤吉郎とともに殿軍をつとめた。

などの設定は今回の大河が初めてではなかろうかとのことです。

また小和田先生といえば日本城郭協会の理事長でもあるので、最近のお城ブームについても触れられました。

小和田先生が若いころは、城や遺跡について社会一般的に理解が薄かったので貴重な城の遺構などがあっても、マンションやゴルフ場に開発されてしまって残念な思いをしたが、最近は自治体によってはきちんと専門家の意見を聞いてくれて、必ず事前に発掘調査をおこなってくれるようになった。

研究者と行政の連携が行われるようになって、文化財保存の観点では大変いい時代になってきた、とお話しされました。

歴史タレントの小栗さくらさんも小和田先生のお話を聞きだすのがうまいですね。あっという間に時間がすぎてしまいました。


講演が終わったころにはもう日が傾いてきたので、公園の駐車場に車を置いて、徒歩で30分ほどの明智城へ登りました。

明智城、正式には明智長山城が正式名称です。

一説によれば、この明智城は康永元年(1342年)に美濃源氏の流れをくむ土岐頼兼が「明智」と改姓し城を築いたことに始まり、その子孫が代々居城としたと伝わっています。その一族が土岐明智氏、すなわち光秀の一族と考えられているのです。

また別の史料によれば弘治2年(1556年)斎藤道三と道三の嫡男・斎藤義龍が争ったとき、道三側についた明智城代明智光安は義龍の軍勢に攻められ籠城します。落城が迫るなか、光安は甥の光秀に明智家再興を託し弟光久と自刃したといわれます。明智城を脱出した光秀は越前に逃れます。

というのがまさに今年の「麒麟がくる」でも採用されたストーリーですが、 実はいずれの史料も信憑性に乏しく、この明智城の存在自体も決定的に裏付けられるものではありません。


大手門

登城口である大手口跡には冠木門が復元されています。

もちろん当時のものではありませんが、山城らしいムードを醸し出しています。


本丸までの道は綺麗に石畳が敷き詰められ、山城の割には登りやすいです。


逆茂木(さかもぎ)

逆茂木とは、先端を尖らせて地面に突き立てつなぎ合わせて柵状にした防御設備です。これも近年になって復元されたもののようです。


明智光秀像

本丸跡に建つピカピカのブロンズ像です。それもそのはず昨年の6月に完成したばかり。以前坂本城でみたずんぐりむっくりした光秀像とは真逆の精悍な顔つきです。

展望台から見る明智庄(あけちのしょう)

現在地名としては明智の名は残っていませんが、高架の手前から山麓までが光秀が治めた明智庄だったといわれています。

明智家歴代墓所

城址の北麓にある天竜寺の駐車場の隅にひっそりとあります。

近年こそヒーロー扱いされる光秀ですが、江戸時代は主君を討った逆臣として、その一族は迫害に怯え、明智の姓を名乗らず名字を変えた人も多いと言われています。

その為もあって、光秀の生誕地説として有力な可児市や恵那市でも資料が乏しいのが現状です。