スラバヤには"ジュンバタン・ジュポン"(日本橋)もかってあった。この日本橋につぃて大東亜戦争が始まる直前の昭和16年、蘭印各地を旅行した読売新聞記者、渋川環樹氏が「カメラとペン蘭印踏破行」(有文社)の中で次のように書いている。

「花を分け榕樹の梢を渡る涼風に南の国の日暮れを楽しんだ。カリマスの川には現地人たちが男と女とに自ら分かれて水を浴びていた。男は素裸で、女はサロンを胸の所まで引き上げてそのまま水につかっている。両岸には人が通る。

このカリスマ川にはジュンバタン・ジャポンー日本橋と呼ばれる木橋がかかっている。私はそれを見に行ったが、ただ欄干のところどころに燈明柱が建てられている白いペンキ塗りの何の風情もない橋であった。7,80年前のものだといわれてだけで、その由来は伝えられていない。

スラバヤにはクンパン・ニッポン(日本の花)という町名が残っている一角がある。ここは現在商業区として栄え、、わが領事館のほか三井、正金銀行、南洋倉庫も付近にある。明治の初年、この地で興行した大サーカス団の中にいた楚々たる日本の女軽業師が非常に評判を取り、"日本の花”の渾名で呼ばれていたが、いつか地名になったというロマンチックな話が在留邦人の間でも信じられているけれど、実際は8,90年前のスラバヤには各町毎に頑丈な門があって、ことが起きた場合には、その門を閉じて各町内の安全を図った」