昭和17年10月15日,堺誠一郎と同じ報道班員だった作家の里村欣三は同僚のカメラマン、中村長次郎と共にサンダカンを出発、ボルネオ最長のキナバタン河を遡る旅に出た。「河の旅」はサンダカンからキナバタン河口を経て同河の水源に近かいビナンガのムルット部落に近かい中洲までの紀行文である。 行程は早く250キロ、里村らは当初、ビナンガから陸路、ジャングルを通り西海岸州のケニンガウへ向かう予定だったが、雨期のため中止し、キナバタンガンを遡下して帰途についた。

里村と中村は途中までサンダカン警察署長と通訳が同行、また部分的には三菱製紙森林調査船に便乗したが、河口からラマグ、ビンタサン,クワムツ、ビナンガまで、ほとんど人跡未踏の地を踏査した。 一方、当時のサンダカンの状況、例えば浅草レヴュー一団一行の戦線慰問、兵站旅行の宴会の模様などにも触れている。河を遡った奥地では行政は英国時代の制度を踏襲しながら、治安は保たれていることが判る。面白いのは奥地に行くほどまだ物資が豊富だったことである。一行は行く先々で華僑経営の店舗兼宿舎(ケダイ)の世話になり、ドゥソン、ムルットなどの少数民族の歓待を受けている。

堺誠一郎、里村欣三氏らが調査した地域は、昭和19年末から20年の敗戦までの期間、日本軍、捕虜の英豪軍の”死の行進”の現場と化した地域である。堺誠一郎が「キナバルの旅」のあとがきで記しているように、この時期はは「連合軍の本格的な反撃も始まる前の一種の真空ともいうべき時期であり、そのためにこのようなのんきな旅を続けることが出来た。」 堺氏はアピ事件(後述)などの事を考えると、このようなのんきな旅行を続けた自分がなにか悪いしたことでもしたような苦しさを覚えずにはいられない、と記述している。