占領直後の英領ボルネオの軍政は各地とも平穏であった。占領直後の16年12月から17年2月までは川口支隊が、ついで17年4月までは中畑部隊の軍司令部が軍政を担当、同年5月、灘集団(ボルネオ守備軍=前田利為軍司令官)編成後は、同軍が防衛と軍政を担当することになった。 軍司令部が軍政を担当していた17年4月までは「警備隊により残敵の掃蕩、敵性人の抑留、抗日又は不良分子の粛清に当たるに概ね表面的には日本の威武に摺伏せるものの如し」(「昭和18年度北ボルネオ概要})この時期の軍政部(軍司令部)はクチンに置かれ英領ボルネオ全体を統括したが、簡素な組織であった。

軍政が確立されたのは、灘集団編成後で、17年4月、海軍統治下の蘭領ボルネオ、ポンチアナが切り離され、軍司令部は当初ミリ(美里)にあったが、のちにクチン(久鎮)に移転した。軍司令部はとくに軍政監部を設けず司令部内に経理部、軍政部を設置、参謀長が作戦と軍政事務を菅掌した。地方行政機構はこれまでの機構を改めて5州(東海岸、西海岸、ブルネイ、シブ(志布)、クチンとして、それぞれに州長官を任命した。