報復は未決拘留者に対しても虐待が行われた。シンガポール、マライ、北ボルネオの英軍管轄裁判での起訴者数は675名だが、戦犯容疑者として検挙、拘留された人数は4000人を越えるといわれる。戦後巣鴨刑務所内でガリ版出版された「英領地区戦争犯罪裁判の実相」は次のように伝えている。

「毎晩のように監視兵による殴り込みがあり、それが済まなければ寝られない.。房舎からは、うめき声、悲鳴が聞こえ、朝、獄庭に出と皆の顔が変形していた。シンガポールのオートラム刑務所では、未決期間内にこのような虐待行為で二人が死亡している」「ほとんどの未決囚が労働を課せられた。それも固定した作業ではなく、雑用、使役に類したものが多く、中には地面を掘ったり埋めたりするだけの無意味なものもあった。さらに給養状態は

非常に悪く、例えば1946年4月頃のチャンギ刑務所では、一日二食,朝はビスケット二枚、白湯のような汁一杯、午後はメリケン粉と玉蜀黍の粉を混合した粥(我々は泥んこと呼んでいた)一杯二合半。慢性的な飢餓の状態。死んでもよいから一度腹いっぱい食べたかった」