シンガポール陥落後、第25軍を構成していた近衛師団は3月9日スマトラ作戦へ、第18師団はビルマ攻略作戦へ、また第5師団も、その主力は豪北作戦へと向かい、昭南は南方軍司令部の守備隊、マレー半島も限られた兵力の独立守備隊のみが駐屯、MPRAJA(マラヤ抗日人民軍)のゲリラ作戦に対処した。

南方軍司令部としては、大東亜戦争全体の戦局からみて大規模の兵力をこの地域に張り付けるわけにはいかなかった。またMPRJAを過小評価していたのかもしれない。ところが、戦局の変化で連合軍のマライ逆上陸さえ予測されだしてきた。

昭和17年5月、第25軍軍司令部の西スマトラ(ブキテインギ)移転に伴い、南方総軍司令部は「軍補」の募集を始めた。「軍補」は「兵補}とも呼ばれ、東京の大本営が南方地域の戦線拡大による兵員不足を補うため、現地人を動員した民兵組織である。「日本の占領下のマラヤ 1941-45」によれば、「軍補」はあらゆる人種から8000人募集された。制服を着用し日本兵と生活を共にしたが、仕事は軽作業と雑役が主で、普通の労務者と代わらなかった。一方「The Japanese Occupation 1942-45」によると、「軍補」は10代の青少年で、初歩的な軍事訓練を受け、敗戦直前にはマライのジャングルでゲリラ戦に動員された者もあった。