6月27日、昭南(シンガポール)カラン飛行場に東京から飛来したチャンドラ・ボース氏はINAの儀仗兵一個大隊の盛大な歓迎を受けた。飛行場にはインド人群衆が小籏をふるって大歓声をあげチャンドラ・ボース氏を迎えた。7月4日、ILLの総会が「大東亜劇場」で開かれ,万雷の拍手の中で、チャンドラ・ボース氏は就任演説を行い、独立達成への道は、武力闘争以外にはないことを聴衆に訴えた。

翌5日、チャンドラ・ボース総裁は市特別庁舎前の広場でINA軍を閲兵し「チェロ・デリー!」(往けデリー!)と2時間にわたって大吼した。昭和17年8月、インド本土ではガンジーはじめ国民会議派の指導者が逮捕され、非暴力不服従の精神は消滅していた。

チャンドラ・ボース総裁の就任で壊滅状態にあったILLもINAも息を吹き返した。18年10月21日、チャンドラ・ボース総裁は解放インド仮政府(アザド・ヒンド)の創設を発表、自身、首相・外相に就任した。そして、3日後英米両国宣戦を布告した。これに先立ちINAは昭南のスレーター、マライのセレンバンなどに訓練センターを設け、逐次兵員をビルマ戦線に投入し始めた。

しかし、時すでに遅きの感があり、日本軍の敗北でINAも2万人もの死傷者と捕虜を出したといわれる。この大半はマライ国内で募集された実戦経験のないタミール人であった。このような状況下で日本の敗戦を迎えたチャンドラ・ボースは、いち早くINAの解散を宣告、自身は日本軍との了解のもとにソ連行きを希望、バンコク経由、日本の爆撃機で台湾へ向かった。そして、松山飛行場で給油して大連へ離陸した直後であった。機は滑走路を外れて土手に激突、チャンドラ・ボースは火だるまとなり、病院へ運ばれて死亡した。48歳であった。