しかし、時の総理、東條英機首相は大東亜共栄圏確立を世界に誇示し、東亜在住200万人インド人の総決起を促すため、その年の5月、バンコクで7日間にわたって会議を開いた。会議には160人の各地代表、約2000人の一般インド人が出席、ドイツにいるインド独立革命の指導者、チャンドラ・ボース氏からもメッセージが寄せられた。

岩畔機関は、インド側の自主討議を尊重して、一切口を出さずオブザーバーとして出席した。会議はさきの東京会議で露出した内部対立,内訌をはらみながらもILLとINAとの関係、それぞれの組織と権限、ILLと日本軍とののの強力関係などを詳細かつ具体的にまとめ、これを63項目にわたる日本への要求の形で提出された。

岩畔機関はこれを軍中央に取り次いだが、軍中央はILLが一方的にこのような決議をし、突きつけてくるとは何事かーという意見で、ILLが期待している回答はなかった。モハン・シン将軍はINAの独立性と自主性を強く主張して譲らなかったが、日本側は将軍の主張であるINAの増強、武力闘争についても時期尚早として認めず、逆にインド人捕虜で労務隊を編成、これを将軍の配下においてラバウルやチモールで使役したいと提案してきた。

日本側は、日本軍に対する作戦協力を第一義に考えていたが、モハン・シン将軍は「われわれは日本の傀儡でも手先でもない」という立場を堅持、先のバンコク会議でINNの総裁に就任したビハリー・ボースを日本の傀儡とまで批判するようになった。そして、悪いことにモハン・シーンの部下の一人が緬印国境で英軍に対してスパイ活動をしていたことが発覚した。