マレー作戦は1942年(昭和17年)1月31日、半島最南端のジョホール・バルに第25軍隷下の3師団が集結、終止符を打った。しかし、戦火は消えたというだけで、各地とも依然ゲリラ活動が活発で、軍政を実施する段階ではなかった。現地の南方軍総司令部では、名目的な軍政部は設けたが、統制は中央の参謀部第3課の軍政班に当たらせた。ネグりセンビランの三月討伐や華人に対する5000万ドルの強制献金などは、この時期に起きている。実質的には軍政が不在だった。42年7月25日,攻略作戦が一段落した時点で、南方軍勤務令が改正され,新たに軍政総監部と軍政監部が設置された。そして同8月には「第25軍軍政監部服務規程」が公布され次の6部が設けられた。

総務部ーーーーーー総務、行政、文教、厚生

管理部ーーーーーー官印政令の保管、功績、公文書の接受発送 摂待

警務部ーーーーーー警務,高等警察、保安

司法部ーーーーーー法務、民事、刑事、行刑

産業部ーーーーーー主計、税務、理財、管財、専売

交通部ーーーーーー陸運、海運、通信、土木

これに先立ち42年3月7日、マライの行政機構として特別市(昭南)10州(ペナン、ジョホール,ケダ、プルリス、クランタン、スランゴール、ぺラ、トレンガヌ、ネグりセンビラン、マラッカ、パハン)を決め、それぞれに日本人の市長と州知事を任命した。行政機構は軍政施行おため、基本的には土侯(サルタン)領の存続、従来からの統治機構を尊重した。