パリットスロン事件が日本軍による戦争犯罪として持ち上がっのは、戦後まもなくのことである。ハックニー中尉は戦時中、日本軍の捕虜仲間であった、シリル・ワイルド大佐(戦後昇格)にパリットスロン事件のことを語った。ワイルド大佐はシンガポール陥落のさい、ブキティマのフォード工場へ白旗を掲げてきた人物で、日本語の通訳でもあった。日本軍政時代,泰緬鉄道建設で酷使され(ハックニー中尉も同じ)たため、戦後は日本人への復讐に燃えていたという。ワイルド大佐は、ハックニー中尉の説明を受けて事件の首謀者を西村中将と断定、昭和21年8月、西村中将の写真を豪州のハックニー中尉のところへ送り、パリットスロンで目撃した人物が西村中将であるかどうか確認を依頼した。

西村中将は当時シンガポールの華僑惨殺事件の容疑者としてチャンギー刑務所に収監されていた。ワイルド大佐からの依頼で豪州軍司令部は、送られてきた西村中将の左右正面三枚の写真をハックニー中尉にみせたところ、同中尉は告発の人物とは確認できないという供述だった。また、告発したワイルド大佐が香港で不慮の飛行機事故にあい、この事件の調査は一時ストップししてしまった。