近衛師団はマレー半島西海岸沿い二敵を追い追撃を開始した。近衛師団は国司憲太郎大佐率いるダイ歩兵連隊と岩畔豪雄大佐の第6歩兵連隊で編成されていたが、1月15日、近歩5は海岸線を近歩5は内陸部を進撃した。それまで先頭に立ち、ほとんど不眠不休で奮戦していた第5師団に代わってであった。両部隊とも”追撃隊”と呼ばれ快進撃を続け、早くも18日にはバクりでオーストラリア第8師団を主体とする3千名の敵と遭遇、勇敢に戦ったが、226名の戦死者、106名の戦傷者を出した。これは大隊戦力の60%にも当たる損失であった。

バクりはムアル川南に位置し、河口の町、ムアルから約10㌔東にある。英国軍はここを“ハンティング・ゾーン”と呼び、南進してくる日本軍を迎え撃つ拠点としていた。掩蓋機関銃銃座によって待ち受けている中へ、”追撃隊”が突く込んだ形となり、双方の戦闘は21日午後まで続いた。戦闘は時には激しい白兵戦となり、後年山下第25軍司令官は「マレー作戦中で最も残忍な戦闘」と評しているほど双方に犠牲者がでた。

そして、この戦闘地域のパリットスロンで起きたオーストラリア人捕虜虐殺事件が後年問題化され、西村近衛師団長が豪州マヌス島の連合軍裁判で死刑に処せられるという悲劇を招いた。近衛師団は、もともと皇居を警備するという性格上、他の師団に比べエリート視されていた。おまけにマレー作戦では遅れをとったため、上部の第25師団司令部との間は、あまりうまくいっていなかったようだ。さらに悪いことに、近衛師団が進撃中の西海岸と第5軍が指揮をとっている本道とを結ぶ道路がなかったことだ。第25軍参謀は前線に出て各師団の将兵と密な連絡を取っていた。ところが、近衛師団との間の連絡は電報や電話による間接的なものが多買ったため、無用な誤解やこじれが生じていたようだ。