当初、日本軍は紀元節(11日)にはシンガポールを陥落させたいと強く期待していたが「来る報告も来る報告も友軍の苦戦を物語る」(牟田口第18軍司令官)ものばかりであった。13日も14日も一進一退の状態が続いたが、180高地、120高地、175高地がわが軍の手に落ちた。しかし、105高地では英国軍の逆襲が激しく10時間を越す攻防戦が続いた。 一方では英国軍が弾薬集積所に火をつけたため大爆発が起き火焔が天を焦がした。このような状況下、14日午後6時、第5師団司令部は攻撃命令を出した。「師団は本薄暮に乗じて河村旅団正面の敵を撃破して一挙に138高地および160高地の線に進出する」戦況は次弟に我が軍に有利に展開し始めてきtりた。第18師団はシンガポール市西方のパシル・パンジャン高地を東南に向かって進撃中、一日遅れて渡河した近衛師団は14日昼までに水源地東北端まで迫ってきていた。第5師団は攻撃命令を受けると、その夜のうちに130高地を奪取、続いて160高地を占領した。15日未明には南水源地南側の陣地帯は第5師団の手中に落ちた。

15日昼過ぎ、占領した160高地から谷を隔てたホスピタル高地を見ると蚊帳のような大白布を建物の窓からたらしているのが見えた。やがて日章旗と白旗をかざして英国兵が数百人、市川大隊の正面に行進してきた。彼らの言によると正式の降伏は午後2時だが、危険なので先に降伏してきたという。

2月午後2時ごろ、英国軍参謀ニュービギン少将一行が白旗を掲げ、パーシバル軍司令官の書簡を持って降参してきた。降伏軍使の文書は第5師団杉浦旅団長から松井師団長へさらに山下第25軍司令官へ報告された。この報告を受けた司令官は、わが軍の攻撃が思うように進んでいない、この時期での突然の降伏申し入れに策謀ではないかと疑いながらも回答を送った。午後6時半ごろ、二度目の軍使一行が指定の場所のブキ手ィマのフォード自動車工場に現れた。