いつまで背伸びするのか日本20100908
OECD加盟国を先進国と呼び、1人当りGNI(国民総所得)が9,206US$未満を援助対象国として発展途上国としている。インドはこの絶対値が小さいから日本の人口と同じくらいの数の富裕層がいて、彼らの実質生活レベルは日本人の上なのにインドが発展途上国で、日本が先進国になってしまうのは奇怪だ。
海外赴任が長いあるエンジニアの持論は、
「発展途上国とは富の配分がうまくできない国」と定義している。
当たらずとも遠からず。
先進国も富の配分が大幅に狂ってきて発展途上国化しているという私の仮説を裏付けてくれた。
イギリスもアメリカも格差においては発展途上国化していると思うが、もともと日本は生活空間を含めた実質生活レベルが低かったので、初めからかなり発展途上だった。そして背伸びしてきた。
インドは有人ロケットを打ち上げる技術と資金調達力があって、電気自動車を輸出していてもはや発展途上国とは言いにくい。
敢えて発展途上国だとすればアンバランスな開発、先端技術の異様な発達に対して、基本的な食の確保の不安定さ。食の供給が不安定なため天災があれば農民が自殺するし、食の保存技術が未発達で多くの食料を無駄にしている現状からみればまだ遅れている。
それで各国が援助の手を差し伸べても、政府OBが運営するNGOが援助金を横取りするから農民のためになっていないという。市民は、カーストが低い労働者の効率性をあまり考えようとしない、農民は土地を持っているから豊かな連中だと言い捨てる。しかし農民は子孫に土地を残すために決して土地を売ろうとしない。だから都市開発の用地買収に何年もかかる。
食を支えている農民はカーストが低いから身を粉にして働き、借金を返せなければ自殺という選択肢も考えてしまう。というあたりが発展途上国的な要素、一億のインド人が裕福だから援助国のジレンマは当然あるだろう。これが、ビルゲイツがインドの金持ちにファンドに参加するように促した背景。
日本もそろそろ考えなくて。
いつまで背伸びし海外援助を続けるのではなく、どんどん民間海外投資を進めて日本人が海外の隅々まで浸透して日本の感性で社会をよくすることこそ国際貢献になるのではないか。流れは出来つつありますが、それを国が強力にサポートする。カネをタダで海外にばらまくのではなく、海外投資した民間を優遇する。税収も増える。
公表されている世界の格差指数はウソだ
毎週休日はデリーの路地裏に侵入するのですが注目度高くカメラを向けられなくて写真入りでご紹介するはずが文章だけになってしまっています。
さて路地裏に変化があった。
季節のせいだろうか。
路地裏に野良牛が少なくなった。
季節のせいか、食べ物が不足したのか、ニューデリー南の住宅地を走る片側3車線の幹線道路に牛が出没するようになった。中央分離帯の植栽が目当てのようで、危険を冒してでも生きるために街を彷徨する動物たちが痛々しい。
インド人に聞くと持ち主がいるらしく、放し飼いにしているとか。
路地裏生活者の生活は至って安定しているように見える。スラム民よりやや上の社会の底辺を形成しているが、路地裏の物価は安定安値だから。高級住宅街の散髪屋は200ルピー約400円、私は路地裏で30ルピー、約60円払う。仕上がりは同じなのにこの価格差。経済の二重構造故、路地裏の生活者は平和だ。実感格差は約7倍(200ルピー÷30ルピー)。
動物同様、幹線道路には物乞いやモノ売りが増え、今やマイノリティは路地裏を出て路上で生活、テントすらない。インド政府はスラムや路上生活者の実態調査をしていないので彼らは統計から抹殺されてしまっているのだろう。インドの格差は日本並みだと計算されている。巷で発表されている数値からスラム民や路上生活者が切り捨てられているからだと思う。今、スラムの実態を住宅省が調査をしているらしい。
以下のサイトの数値は、日本とインドの格差はほぼ同じで、格差約8倍、実感した(スラムを除く)格差に非常に近い。やはりスラム民のデータはネグレクトし、路地裏住民が低所得層に位置づけられているようだ。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4650.html
インドは収入も物価もその絶対値が日本より小さい。
日本は収入も物価もその絶対値が大きいだけでないか。
だから格差は同じになってしまう。
今膨張し続けている東アジアの格差だってそんなに大きくない。
インドよりもアメリカの格差のほうが上である。
一見正しいように見えて、どこかおかしい。
本当の底辺にあるスラム民は人間にあらずとばかり、社会構造からきれいにネグレクトされているのは明らかだ。インド人の粘り腰に比べたら日本人は甘っちょろい
以前インド人4人とサラリーの交渉について投稿しましたがそのつづきです。
私は、一人の68歳のエンジニアの嫉妬と気迫に負けました。
「自分よりも6歳も年下のエンジニアが俺よりも学歴も経験も下なのに俺よりも給料が高いのはけしからん」という事でした。その若い、と言っても62歳のエンジニアが彼らの昇給の目標になりました。
要求は非常に人間的な感情論でした。
感情を転覆させるのは理詰めの交渉では無理と踏み、交渉をインド人にバトンタッチしました。
彼はなにをやったか。難しい事は一切言わなかった。トリックつまりウソを言っただけでした。
「隣の芝生はいいように見えるが、ここだけの話、実はすごく安いんだ。こちらの給与が高いことが知れるとまずい。内緒だぞ。よし15パーセントアップでどうだ」
こんな感じです。
交渉は何度もやりました。そのたびにウソに工夫を重ねて、うまくサインさえもらえばいいと考えたようです。
4人のうち2人は、私のオファーよりも安いおカネで合意していました。
これは不思議でした。
結局私の紙に書いた真心のオファーは頭に残っていなかったようです。
私の交渉時には大きな目標額で頭がいっぱいだったのでしょう。
結局、生活に困っていないのですね。うまく騙してうまく騙される。そして禍根を残さない。これがインド流交渉の極意なのかもしれません。でも交渉事が遊びのような印象を受けました。
その68歳氏は最後まで粘ってウソを見破り62歳氏の給料に迫ったようです。
労働者の態度は、常識にとらわれず、気迫を忘れず歳をとっても自分の経験を主張し「若い人間より安いのはなぜか」と突っ込む。
健康じゃなきゃ言えません。
その点、日本のシニア制度は急激に給与が下がるのですから理不尽です。
もう一人の68歳氏は結構なカネ持ちなのですが、契約書にサインした後もまだ粘っています。去年の給与も納得していなくて、私も乗り出してトリックというかウソを言って去年の契約の分だけは諦めてもらいました。
インドは契約社会だと思っていたわけですが、無視する度胸。脅し文句もありました。いつまでも粘るのは当たり前。昔の給与も納得していない差額をくれと言う。人の迷惑を考えない。人目なんか構うものかという態度。
インド人はこのような交渉は当たり前なのかもしれず、そのことで心証を悪くして評価を下げることがあってはならない社会なのかもしれない。
私も含めて日本人は甘っちょろいと思いました。
もっと粘って交渉術を磨かないといけないと思った次第。