(マルグリット・ファミー1910年後半から20年までにとられた写真)
1923年美貌のプリンセス・マルグリット・ファミー夫人はサヴォイホテルのスィートルームで億万長者の夫を殺害しますが無罪放免となります。
このマルグリット・ファミー夫人はパリの娼婦で1917年から2年間、皇太子時代のエドワード8世の愛人でもありました。
マルグリットは使用人として働いていましたが16歳の時父親不明の娘、レイモンドを出産します。
マルグリットは下層階級出身ですが非常に美しかったためメゾン・ド・ランデブーという上流階級向けの売春宿を経営していたデナン夫人に見出されます。
マダム・デナンはマルグリットに服装の選び方、センス、会話術、言葉遣い、ピアノまで教え、マルグリットは高級娼婦として活躍するようになりました。
1907年、17歳のマルグリットは40歳の裕福なワイン商、アンドレ・メラーというパトロンをみつけ1913年まで約20万フランという大金を受け取っていました。
マルグリットは1917年4月にパリのオテル・ド・クリヨンで第一次世界大戦のため西部戦線の将校としてフランスにいたプリンスオブウェールズのエドワード(後のエドワード8世)に出会います。
(プリンスオブウェールズのエドワード(後のエドワード8世))
マルグリットは26歳の経験豊富な高級娼婦でエドワードは23歳でした。
(2人が出会ったホテル・クリヨン)
(皇太子の愛人、フリーダ・ダドリー・ウォードダウントンアビーにも出てきました)
2人が別れる際に送った20通の手紙を破棄するように頼みますがマルグリットは10万ポンドを支払えと脅迫しました。
1919年、若く裕福なチャールズ・ローレントと結婚しますが一年後に離婚します。
マルグリットは巨額の慰謝料をもらい、30歳の若さで10頭の馬と2台のリムジン、パリに優雅な邸宅を所有するまでになりました
田舎に預けていた娘を国内最高の寄宿学校にも入れました
離婚してしばらくした32歳のマルグリットは10歳年下で22歳のハンサムで大富豪のエジプト人貴族、アリ・ケマル・ファミー・ベイ王子と出会います。
(とてつない大富豪だったアリ・ケマル・ファミー・ベイ王子)
王子はマルグリットに夢中になりドーヴィルまで追いかけ、ダイヤモンドをプレゼントし1922年12月に2人は結婚し、マルグリットはイスラム教に改宗しました。
1923年にはカイロで結婚式もあげ、エジプトに引っ越しマルグリットは大富豪となり、当時のメディアから〝プリンセス〟と呼ばれました。
しかし2人の結婚生活は価値観が合わず、不幸な結婚生活でした。
マルグリットは柔和な美人でしたが絶対に夫のいいなりにならない、気性が激しい女性で、夫は東洋的な偏見の持ち主で女性は従順でなければならないと考えていました。
マルグリットは24時間自分の部屋に閉じ込められたり厳しい夫の管理下に置かれることとなりました。
1923年の6月には高価なピストルを振り回したり激しい夫婦喧嘩を繰り返し、マルグリットは打撲傷が、王子は顔に引っ掻き傷を負っているのが目撃されるようになりました。
1923年7月に夫妻はロンドンの高級ホテル、ホテルサヴォイの4階に滞在します。
(1920年代のサヴォイホテル)
マルグリットは高級娼婦時代から派手な生活をし、浪費癖があったためカルティエとヴィトンの店に電報をうち、ツケで買い物するのをストップさせたりしました。
そしてその晩、言い争いの末に32口径の銃で王子の首、背中、頭を繰り返し撃ち殺害してしまいました。
マルグリットは刑務所に護送されますが弁護士エドワード・マーシャル・ポールが東洋人であるエジプト王子は性倒錯の趣味があり、西洋人の妻を殴る蹴るの虐待をし、マルグリットは銃の扱いに慣れておらずオートマティックとは知らなかったため事故だと主張し、裁判では一転して無罪放免となりました
裁判ではマルグリットがエドワードと第一次世界大戦のさなか交際していたとき、何万人もの英国兵士が塹壕で苦しんでいるなかパリの娼婦とシャンパンを飲んで遊んでいたという証拠の手紙を返還する条件として無罪になったとも言われています
無罪になった後マルグリットはパリのホテルリッツの向かいに移り住み、5人の男性からの示談金で裕福に暮らし、1971年1月2日に80歳で亡くなりました。
(1898年創業の壮麗な高級ホテル、リッツ。ホテルリッツ周辺)
(ドラマ、ダウントンアビーのシーズン4に皇太子の愛人、フリーダ・ダドリー・ウォードが出てきます)