クルティザンヌとは高級娼婦のことを指しますがいわゆる娼館や街の女たちとは全く違った存在でした。
彼女たちは大金持ちや貴族に囲われ、豪邸に住み、上流婦人たちも真似できないほどの贅沢な日々を送っていました。
屈指の人気を誇る珠玉のオペラ、椿姫は高級娼婦ヴィオレッタの愛と悲しい運命を描いた人気オペラです。
このオペラのモデルとなった実在の人物がマリー・デュプレシーです。
(マリーの母親、マリー・デエマリーの美貌は母親譲りだった。)
夫婦仲はよくなく、アルフォンシーヌは母親を8歳の時に失いました。人生の支えとなるべき人を失ったアルフォンシーヌは自分の力だけで大きくなっていきます。
父親はほとんど働いていなかったため12歳の時にはアルフォンシーヌはプランチエという老人に売られます。
その後は父親とパリに出て工場や洗濯屋などを転々とします。
アルフォンシーヌに転機が訪れたのは16歳の時でした。
名門グラモン家のアジェノール・ギッシュに見出され、リヴォリ街近くに館を借りて住まわせピアノやダンスの家庭教師をつけ教育を受けることができるようななりました。
この時代の識字率は低く、アルフォンシーヌの父親は字が書けなかったため、アルフォンシーヌは国語をならい、本を買い与えられたアルフォンシーヌは読書家となりました。
この頃にアルフォンシーヌは貧困生活から這い上がるには身分ある金持ちを掴むしか無いと確信します。
当時は女性の医者も弁護士もエンジニアも大学教授も存在しない男社会でした。
貧しい平民の女性にとっては上流階級の紳士の愛人や妾になることは社会的な構造から考えて這い上がる唯一の道でした。
アルフォンシーヌはさらに金持ちの男を掴むため名前を貴族風にマリー・デュプレシーと変えました。
この頃からおかしな咳をするようになっていたマリーは1844年に温泉地に療養に出かけました。そこでマリーはロシア帝国に仕えるドイツ貴族、ギュスターヴ・ド・スタッケルベルクと出会います。
(マリーのパトロン、ギュスターヴ・ド・スタッケルベルク)
スタッケルベルクはこのとき78歳だったがマリーを見てたちまちその魅力の虜となり、マリーそっくりの娘を持っていたスタッケルベルクは娼婦家業から足を洗うなら一生困らない年金を与えると提案しましたがマリーは断りました。
すでに肺を病んでいたマリーは自分の命が長くない予感がありました。どうせ短い命ならその日1日を楽しく暮らしたいと考えたのです。
なにより、当時のそれて現代でもですが〝
一度でも道を踏み外した女は本心から行いを悔いても決して立ち直ることはできない〟
とわかっていたからでした。
スタッケルベルクはマリーをマドレーヌ大通りに住まわせ、ルイ王朝の豪華な家具を運び入れさせました。
スタッケルベルクはマリーを最後まで囲うつもりはなく、マリーにふさわしい青年が現れ、祝福される結婚をすることを望んでいました。
その頃マリーは20歳で若さと美しさの頂点でした。
美人薄命の典型的と言われたマリーについては作家のギュスターヴ・クローダンは
『彼女の際立った美貌、気品、そして魅力にはこの世界でスターになるべき資格が充分備わっていた。彼女は華奢で顔色は蒼白く地面まで届きそうな素晴らしい髪の毛をしていた。彼女の繊細な美しさと少し静脈が浮き出た白い肌は彼女が結核であり、早死にする予兆であった。
マリーはそれを知っていたのだろう、異常なほど陽気に騒いでいたかと思うと急に黙り込んでしまうことがあった。。』
と述べていました。
マドレーヌ大通りに引越した頃、同じく20歳の有名な作家アレクサンドル・デュマの息子と出会います。
その頃のマリーはスタッケルベルクのおかげでドレス、宝石などすべて超一流品で身を固めておりデュマの手の届く相手ではありませんでした。
(アレクサンドル・デュマ・フィス)
しかしデュマの純粋な愛に惹かれて恋人となりましたが何人ものパトロンがいるマリーに耐えられず結局破局してしまいます。
アレクサンドルと別れた後、天才ピアニスト、フランツ・リストとマリーは交際していました。
(モーツァルトの再来と言われたフランツ・リストはその超絶技巧とイケメンぶりでパリの貴婦人たちを熱狂させました)
マリーが最も愛したのはこのリストだと言われています
しかしリストは芸術家なのでマリーと同じく貴族のパトロンを必要としていました。
マリーと出会った時リストは34歳ですでにマリー・ダグー伯爵夫人との間に3人の子をもうけた後別れていました。
しかもリストはピアニストとして栄光の頂点に立っていました。マリーのような職業の女性を伴侶にすることなどできませんでした。
(マリーのパスポート)
マリーはオペラ座の仮面舞踏会でエドワール・ド・ペルゴー伯爵という銀行家の気をひきました。
ペレゴー伯爵は元々アリス・オジーのパトロンでしたが美しさの上では自分の方が優っていると思ったマリーは一夜にしてペレゴー伯爵を虜にしました。
(銀行家のペレゴー伯爵)
しかしやがてスタッケルベルクは破産してしまい、マリーの生活を見るどころではなくなってしまいました。
それからのマリーは借金に借金を重ねる自転車操業となってしまいました。
さらにその頃には持病の結核が悪化したことによる急速に衰え始めた容姿に恐れを抱き始めました。
美しさと健康があればスタッケルベルクという経済的保護を失っても生きる術はあるのに頼みの綱の美しさと健康が破壊されれば食べることすらできなくなるからでした。
命が尽きる前になんとか今の境遇から脱出しようとしたマリーはペレゴー伯爵と結婚し、伯爵夫人となります。
しかし財産はすべてアリス・オジーに使い果たされており、夫であるペレゴー伯爵は新妻であるマリーに生活費も渡せない状態であり、フランスではなくイギリスで結婚したため結局結婚は無効となってしまいます。
1848年マリーは病をおしてオペラ座へ向かいました。
顔色の悪さを隠すため一番好きだった白いドレスを着ようとしましたが借金取りにとられており仕方なく黒いタフタのドレスとイヤリングをつけ、椿の花を胸に飾りました。
パリ社交界の人々は『あれが全盛を極めたマリー〟デュプレシーなのか?』『両目がたいまつのように燃える美しい幽霊だった。』などと噂し、好奇の視線でマリーを見ていました。
極貧生活から最高の暮らしを味わい、マリーは自分の命の灯が絶え絶えになっているのをはっきりと感じとっていました。
パレ・ロワイヤルの赤い絨毯、赤い天鵞絨の緞帳、天井のシャンデリアの光。
馴染み深いすべてのものがマリーから遠ざかっていこうとしていました。
これが最後の外出となりその夜からひどい喀血が続き、3日3晩苦しみ続け1847年2月3日の明け方マリーは23歳になったばかりで息をひきとりました。
マリーは最初共同墓地に葬られたがペルゴー伯爵はマリーを発掘し、モンマルトルに埋葬し直した。
(マリーのお墓)
ペレゴー伯爵は花が毎日絶えないように墓守に言い伝えた。
その後ペレゴー伯爵は独身を通して、1898年のある朝、庭師と農夫の2人の隣人によって死んでいるのが発見されました。
(ペレゴー伯爵のお墓)
マリーの死後、デュマはマリーをモデルにして小説『椿姫』を書き上げた。マリーが死んで10カ月。小説、『椿姫』はヒロインがついこの間死んだ実在の娼婦ということもありたちまちベストセラーとなりました。
『椿姫』の成功はデュマの社会的地位を不動のものにした。
しかしマリーを直接知っていた人々はデュマの『椿姫』に反発を隠せなかった。
『あの程度の描写ではマリー・デュプレシーはだだのクルティザンヌに過ぎないという印象を与えてしまう。
彼女は普通のクルティザンヌを超えた女性だった。』