賽金花は中国、清朝末期の伝説の妓女です
(1920年代の賽金花)
妓女とは日本でいえば遊女もしくは芸妓のことです
妓女は歌や舞、数々の技芸で人々を喜ばせ、時には宴席の接待を取り持ちました
なので妓女の評判は美貌や若さよりも、話術・詩作・酒令に優れているかという才知による教養的な側面が重視されました
賽金花の本名は趙彩雲といいます
安徽省黟県上軸村の貧しい家に1874(1872年説も)年11月17日生まれました。
賽金花は貧しさのため娼家に売られます
利発な女の子だった賽金花は15歳(13歳とも)で妓女としてデビューしました。
16歳になっていた賽金花は34歳年上で50歳のスーパーエリート外交官、洪鈞(ホンジュン)に見初められ落籍されます。
(洪鈞。賽金花の最初の夫でエリート外交官であり学者)
洪鈞は、科挙を首席で合格した才子でした
しかし洪鈞には年上の正妻、病弱な第二夫人がいたため賽金花は第3夫人となりました
1887年洪鈞がロシア、ドイツ、オーストリア、オランダの4カ国の全権大使になると、賽金花は洪鈞夫人の名目で洪鈞に付き添い、ヨーロッパを歴遊
(纏足をしていたため、賽金花はダンスを踊ることはできませんでした。)
さらにビスマルク首相、ドイツ皇帝、皇后に謁見を許されるという栄光が3年続き、賽金花は上流階級の暮らしをしました
妓女時代に身につけた教養、技芸のおかげでファースト・レディ並みの社交性を発揮したといわれています
さらに頭のよかった賽金花はベルリンに滞在した4年間の間にドイツ語をマスター
ドイツ時代に賽金花は一度流産した後、女の子を産みました。
しかし帰国後まもなく夫の洪鈞は54歳で死去してしまいます
その時賽金花はまだ22歳の若さ。
賽金花は洪家を離れ、上海や天津、北京で妓楼を開設。
元外交官夫人というネームバリューを存分に活かして名声を博します
1900年義和団事件が勃発。義和団が賽金花のいる北京を占領。
しかし国事を担っていた西太后と若き清の皇帝、光緒帝は外国軍を怖れてなんと紫禁城から逃亡してしまいます
無政府状態になってしまった北京では兵士による略奪や虐殺事件が続出
そんな北京の人々のために立ち上がったのが賽金花でした
義和団事件の後にドイツ公使、ケットレルが殺されていたため、賽金花は驚きの外交手腕を発揮すしました。当時、ケットレル夫人は、夫の死に憤慨し光緒帝や皇后の謝罪まで要求していたが、それは到底無理な話でした
そこで、賽金花は外交官夫人時代に覚えたドイツ語を生かして流暢なドイツ語で夫人をなだめ、ケットレルの記念碑が建てることを提案。その内容はやがて条約にまで組み込まれました
さらに賽金花は8ヶ国連合国を率いていたヴァルダーセー元帥を説得。そして北京市内での連合国と北京市民の衝突を回避することに成功。
賽金花は救国の英雄ともてはやされました
この活躍は西太后に届き、賽金花は紫禁城に招かれ賞賜が贈られました
1903年賽金花は娘の鳳雲の怪死事件の容疑者、(娘を虐待死させた)という罪で投獄されてしまいます
1905年に刑務所を出た後は北京で外国人や軍人向けの店を開いて人気を集めました。
1911年賽金花は上海に行き、曹瑞忠さんという方の夫人の一人になりましたしかし、曹さんは数ヵ月後に亡くなってしまいます
その後、賽金花は昔からのお客であった、民国政府参議員、魏斯霊さんの援助を受け、北京の前門外の櫻桃斜街で同棲生活を始めます。
そして、1917年名前を趙霊飛に改め、上海に行き、魏斯霊さんと当時はまだ珍しかった教会での結婚式を挙げました
賽金花は初めて正式な妻となりました
しかし、この魏さんも結婚4年後の1921年に48歳で亡くなってしまいました
賽金花は北京の陋屋で貧困の中、1936年12月4日64歳で息をひきとりました。
(晩年の賽金花)
思えば一生転々とした栄枯盛衰の奇しき人生であった。賽金貨は清から中華民国へと変転していく中国の近代史を飾る一輪の名花だった。
賽金花のいたこの八大胡同は、清朝末期から民国時代にかけての北京最大の色町だったところ
ちなみに賽金花のいた妓楼は宿泊できます