ジナイーダの実家、ユスポフ家はモンゴル帝国のジョチ・ウルス重臣マンギト部に出自する14世紀タタールの雄エディゲ後裔ユスプを家祖にするロシア屈指の名門で、ジナイーダはユスポフ家の最後の男系子孫として1861年9月2日に誕生しました
父ニコライ・ユスポフ6世は皇帝ニコライ1世の元で大法官を務めました。
母親タチアナ・アレクサンドロヴナ・デ・リピウレはエカテリーナ2世が秘密結婚した相手グリゴリー・ポチョムキンの姪を母に持つこれまた名門貴族出身でした
ユスポフ家はサンクトペテルブルクに4つの宮殿を所有。さらにモスクワに3つの宮殿を所有していました
さらにカスピ海に合わせて37の鉱山・工場・油田を所有しておりロシア帝国を統治していた帝室、ロマノフ家より裕福
美人でお金持ちというなんとも羨まし過ぎる女性です
ジナイーダ自身もネフスキー大通りに巨大な宮殿を所有
ジナイーダはロシア貴族社会で最も裕福な女相続人として知られることになりました
少女時代から大変美しく、また社交的な性格のジナイーダは他の貴族や王家から注目を集めていました
ジナイーダは幼いころから自信にあふれた美しさを持っていた。
芸術のパトロンであり、みずからも芸術に関心を抱いていた。ジナイーダは美しい宝飾品も好んでおり、いくつかの歴史的に貴重な宝石もたくさん所持していました
しかしオーストリア皇后エリザベートのように自身の美しさに執着することは決してありませんでした
さらにユスポフ家の莫大な財産を継ぐのはジナイーダな夫になる人物とその長男に限る、またユスポフ公爵位をつげるのもジナイーダな産むであろう長男だけというのが当時の法律でしたのでジナイーダは全貴族社会から注目の存在でした
ジナイーダは1881年4月4日に20歳で結婚します
相手は5歳年上のフェリクス・スマローコフ=エリストン伯爵でした
夫フェリクスも裕福でしたのでこの結婚によりそもそも莫大だった財産がさらに増大することになりました
ジナイーダは1883年ニコライと1887年フェリクスを出産
ロマノフ家では子供達の教育にはなるべく「普通」の感覚を身につけるべく出来るだけ質素な生活と厳しい躾をしていました。寝具は簡易ベッド、兄弟で狭い部屋を共有、毎朝の水風呂、母乳による子育てなど。。他のロシア貴族たちもそれに倣いました。
しかしジナイーダは「普通」を無視し、子供達に「貴族」の生活をさせ自由に育てました
そのせいでジナイーダの長男ニコライは派手に遊び、夜遊びに明け暮れていました。
次男フェリクスも12歳にして初体験をするという年齢に見合わぬ世界に溺れていました。
1908年長男ニコライは人妻と不倫。
激怒した夫から6月6日、決闘を申し込まれ2発目の銃弾でニコライは致命傷を負い、あっけなくユスポフ家の後継者は死んだ。
ジナイーダは悲しみにくれたが、次男フェリクスがユスポフ家の後継者となったのがまだ救いだった。
この事件はジナイーダの人生に暗い影を落とすことになりました
時はロシア帝国末期、ジナイーダはロシア貴族における花形であった。
その美貌と惜しみない豪華なもてなしで有名になっていました。
しかし時代の空気は着々と革命を匂わせていました
第一次世界大戦の泥沼により傾きかけたロシアは、その責任を皇帝ニコライ2世に問い、帝政を壊すことで解決を目指そうとしていました。
当時ロマノフ家は重大な問題を抱えていました
世継ぎである皇太子アレクセイが血友病に冒されていたのです
血友病は血液が止まらなくなる病で母親である皇后アレクサンドラの家系の遺伝だった。
そのため皇后アレクサンドラは怪しげな祈祷師ラスプーチンを神格化するようになっていきました。
このことからアレクサンドラ皇后に非難が殺到しており、民衆も宮廷人も皇后のふるまいを非難しました
それはジナイーダも同じことでした。ジナイーダはロマノフ家の行く末を思うにつけ、アレクサンドラ皇后のふるまいに問題があると考え、忠告したがアレクサンドラ皇后は聞き入れなかった
それどころかますますラスプーチンに心酔していきました
母親ジナイーダのそんな気持ちを汲み取った息子のユスポフは1916年12月ラスプーチンを殺害。
しかしそれから3ヶ月後の1917年3月ロシア革命が勃発し、皇帝ニコライ2世はあっけなく退位した。
後に皇帝一家は惨殺された。
ジナイーダは夫とともにローマで亡命生活を送ったが、夫の死後はパリに移り住み、1939年11月24日78歳で死去した。
ジナイーダな莫大な財産はロシアから亡命する際に大半を放棄しなければならなかった
持ち出せたわずかな宝石も困窮する自身や息子一家のためにすべて売却してしまった。
ロシア時代は大富豪だったジナイーダですが、亡命後はかなり金銭的に相当苦労したようです