実は仕事の関係で港区に3年程住んでいましたのでとても大好きな町ですなので本日は港区ゆかりの人物を書きたいと思います。。
明治時代に美人絵葉書で人気の赤坂芸者、萬龍です
萬龍は山口百恵さんのようなその慎ましい生き方と華やか過ぎる美貌により庶民から憧れの存在でした。
明治27年(1894)に誕生。本名は田向静
本名は田向静で、東京日本橋で運送屋の下請けをしていた田向初太郎と濱の間に生ました
明治24年、東京浅草にあった十二階建ての凌雲閣(りょううんかく)で、客寄せのためにおこなわれた「凌雲閣百美人」コンテストが、写真による美人コンテストのはじまりといわれています。
この3年後に生まれた萬龍。
しかし父親が肺病となり一家は困窮し、7歳のとき東京赤坂(現在の東京港区赤坂一丁目)花街の芸妓置屋・春本の蛭間そめの養女になりました(父親はまもなく死去)。
当時流行の美人絵葉書のモデルとして知られ、明治41年に3千枚の応募写真から選ばれた100人の写真を付録につけて雑誌『文芸倶楽部』が実施した全国百美人の読者投票で9万票を獲得し優勝。
ミスコン女王となり萬龍の絵はがきは飛ぶように売れ、〝酒は大関、芸者は萬龍〟とまで言われ、化粧品や百貨店の広告にも登場し、庶民から大人気でした。
今はネット、ツイッターの時代。しかし明治時代と写真の時代
うりざね顔に細い目、おちょぼ口といった様式化された江戸時代の浮世絵美人の時代は終わり、四角い写真に切り取られたリアルな美人が、メディアを介して人々の注目を浴びるように
(今でいうAKB48やSKE48でしょうか)
写真の大衆化が進むにつれ、人々の興味の的になったのはやっぱり〝美人〟。明治なかばには、写真による美人コンテストがはじまります。
その対象は、最初は芸者さんでした。宴席にはべり、美しさや芸を売り物にする芸妓は、顔と名前を売るのも仕事のうち
その姿が写真として世間に公開されることに対しても、一般人のような抵抗感は少なかったのでしょう。
切れ長の二重まぶたに自然な太い眉、ぽっちゃりした顔立ち……。姿は和風ですが、今の基準でも十分通用する美人といえるでしょう。
うりざね顔の浮世絵美人から健康的な近代美人へ。
明治維新以降、一気に流入した西洋文化の影響を受けて、美人の基準も少しずつ変わっていきますが、写真によって、具体的な美人像が提示されたことは、その後の美人の系譜をたどる上で、大きな意味がありました
明治半ば、現在の港区赤坂一丁目の溜池を埋め立てて生まれた赤坂溜池町には、後の赤坂花柳界へとつながる料理屋や芸妓屋が軒を連ねていました。
お酌(半玉)時代から注目され、芸妓になったあとも、おっとりしすぎだと咎める者もあったが、人気を集めていました。贔屓客に言わせると、小柄で、よく見ると抜きんでるほどの美人でもなく、芸も接客も大したことがないのに、そういったことをすべて超越する不思議な魅力と雅味を持ち合わせていたという。
(萬龍は肩揚げをした子どもの着こなし、刺しゅう入りの半襟、花飾りのついた櫛、小犬を抱いたポーズなど、全身で半玉ならではの可愛さを強調しています)
萬龍は1910年、箱根で大洪水に遭い、貧血を起こし逃げ遅れかけたところを東京帝国大学の学生・恒川陽一郎に助けられるという事件があった。
翌年、再会した2人はやがて日本一人気ナンバーワン芸者と学生という禁断の恋におちた。
恒川は谷崎潤一郎の府立一中、一高以来の同級生であり、同人誌「新思潮」に参加する文学志望の青年であった(横浜船渠第一号船渠などのドック建設で知られる恒川柳作は父)。
恒川は姉婿の代議士・風間礼助を頼り、春本へ支払う見受け金の金策に奔走するなか、萬龍がインクを飲んで自殺未遂を起こす一幕もあった
1913年、恒川と萬龍は結婚。大学生と芸妓のロマンスは新聞紙上で大きく取り上げられた
1914年7月、恒川は東京帝大法科大学政治学科を卒業、同年、自伝的小説『旧道』を刊行し評判になった。
ところが結婚4年目の1916年、恒川が病死し、若くして未亡人になってしまった
再び萬龍として芸妓に戻るのかどうかが世間の関心を集めたが翌年(1917年)、縁あって恒川の知人である建築家の岡田信一郎と結ばれることになった(岡田静となる)
再婚後は病弱な夫の看護や設計事務所の手伝いに専念した。
岡田は東京で生まれ、1906(明治39)年に東京帝国大学を卒業しました。
上述した学校の教授を務めながら、自身の事務所も持ち、洋式建築の意匠を得意とし、西洋風の古典主義や和風の意匠などを自在に使い分けた人物です。
主な作品としては、大阪中央公会堂、大阪高島屋、歌舞伎座、旧鳩山一郎邸などがあります。
また、妻として芸妓である萬龍を娶るといったことからも、金銭面の充実、そして建築以外の芸術・芸能への深い理解もあった人物だったと考えられています
岡田は1932年に逝去し、萬龍は再び未亡人となった
しかし後半生は遠州流の茶道教授として多くの弟子に慕われる存在でした
萬龍は1973年12月に死去。