(ハリエット・ハワード 1823–1865)
ハリエット・ハワードは1823年にイギリスのブラインドンでエリザベス・アン・ハワードとして生まれました
父親は婦人靴商であり、母親は敬虔な新教徒でした
しかしハリエットは女優になるために15歳で馬商人の息子と駆け落ち
そしてハリエットはオックスフォード・ストリートで暮らしました。
この時名前をエリザベスからハリエットと名前を変えました
17歳になったハリエットはロンドン社交界で評判の女性となります。
そして近衛騎兵連隊の幕僚と恋に落ち、男の子を産みます
1846年のある夜、ハリエットはプレジントン夫妻のサロンでドルセ伯爵と会い、彼から「うつろな目をした小さな男」に紹介されます。
周囲の者たちは、この男のことを「殿下」と呼んでいた。
〝この小さな男〟はルイ・ナポレオン(のちのナポレオン3世)だった。
ハリエットはうやうやしく膝をかがめた。
この時ハリエットは23歳で素晴らしい肉体と〝古代人のように整った顔立ち〟の輝くばかりの美しさだった。
ルイ・ナポレオンは38歳だった。ナポレオン1世の甥であったがら監獄から出てきたばかりのルイ・ナポレオンは一文無しだった
さらに足は短く、口髭はタバコで黄色くこげていた。顔はやつれ果ていて美男子とは程遠い外見でした
2人はすぐに恋人同士となりました
ハリエットはすぐさま夫のところに走り離婚を申し出た。
近衛騎兵連隊の幕僚をつとめる夫は粋で寛大だった。ハリエットの話を聞くと、夫は何も言わずに離婚を認めた上、資産、不動産、宝石を分けてくれた。
数日後にルイ・ナポレオンはそれまでの質素なホテルを離れ、ハリエットが借りていた豪華な住居に転がり込みヒモ的な存在に。
ルイ・ナポレオンの生活は一変した。ハリエットの財力を利用してパーティを開き、狩をし、ロンドン中を馬車で乗り回す優雅な生活を送った
ハリエットには野心があり、ルイ・ナポレオンに全財産を賭けた。
つまりルイ・ナポレオンがクーデターに成功したら自分がフランス皇妃におさまるつもりだった。
ハリエットは土地や宝石を処分し、ルイ・ナポレオンに貢ぐため最後には家具まで売り払いました
そしてハリエットは新聞記者、風刺漫画家、シャンソン作詞者を買収し、行商人たちを使って全農村にルイ・ナポレオンの経歴をばら撒くプロパカンダ作戦にでます
この前代未聞の宣伝キャンペーンに費やされた額はなんと約50万フラン
大統領選挙は12月10日に行われた。
ハリエットの宣伝キャンペーンの効果は絶大だった。ルイ・ナポレオンの得票数は次点のカヴェニャックの4倍近い550万票だった。
大統領に選ばれたルイ・ナポレオンはエリゼ宮に入る。
すぐそばに、エリゼ宮殿の庭園から抜けてゆけるハリエットのための小さな私邸も借りた
ハリエットはルイ・ナポレオンと正式に結婚してフランス皇妃になりたかった
しかしエリゼ宮を牛耳っていたのは大統領ルイ・ナポレオンのかつての婚約者マチルド皇女だった。
マチルド皇女は15歳の時ロシアの大富豪アナトーリー・デミドフに嫁いだが、夫のDVに耐えかねて別居状態でした
ロシア皇帝ニコライ1世のはからいで巨額の慰謝料を得てパリに愛人とともに帰ってきていた。
マチルドはマチルド皇女と呼ばれ、レセプションも舞踏会も万事を取り仕切っていました。
マチルド皇女は絶対にハリエットをエリゼ宮に入れようとしなかった。
マチルド皇女は陰険だった。
マチルド皇女はハリエットがルイ・ナポレオンに近づけないようにするだけでなく、2人の仲を引き裂こうと画策します
女に目がないルイ・ナポレオンの性格をよく知っていたので、オペラ座通いをすすめ、美しい踊り子との仲を取り持とうとうとしました
クルセル街のマチルド皇女の私邸では毎日のようにパーティが行われていたが、ハリエットは完全に無視されていた。
1849年4月マチルド皇女は自宅でのサロンに若いスペイン女性、テバ伯爵令嬢ウージェニー・デ・モンティホを紹介した。
ルイ・ナポレオンはウージェニーの露わな両肩、腕、優雅なうなじ、いかにも挑発的な胸を眺めまわした。
この時23歳のウージェニーは美しかった。ウージェニーの刺激的な魅力はあらゆる男たちの注目の的となった。
鮮明な濃い青色の美しいふたつの目は陰影につつまれ、物腰は限りなくしとやかで高貴さを漂わせていました
ルイ・ナポレオンはウージェニーより18歳も年上だったが、ウージェニーに一目で恋に落ちた。
1853年ルイ・ナポレオンはナポレオン3世となりウージェニーと結婚を決意した。
完全に無視されたハリエットは荷物をまとめ、2人の結婚式を恨めしげに見守るしかありませんでした
ハリエットはフランス皇妃になるのが長年の夢だった。それなのに宮廷にも入れてもらえず、フランスからも追い出された
ひとりの男の気まぐれのために弊履のごとく棄てられたハリエットは寂しく宮廷を立ち去っていた。
その時ハリエットはナポレオン3世が牢獄にいた時に〝獄中の妻〟だったエレオノール・ヴェルジョ に産ませた2人の子ども、アレクサンドルとウジェーヌを引き取った。
フランスからイギリスへ戻ったハリエットはそこで結婚します。
しかし11年後ハリエットは突然パリに現れた。
かつて誰からも賞賛される肉体を誇ったハリエットも41歳になって肥満になり、馬車の扉を拡張しなければ身体が通らないほどだった
特大の扉をつけた優雅な馬車でハリエットはブローニュの森やシャンゼリゼを走らせた。いまだに皇帝ナポレオンの寵姫であるかのように。
ある晩オペラ座を訪ねたハリエットはオペラグラスでナポレオン3世の姿を追い、皇帝ナポレオンと皇后ウージェニーを不愉快にさせた。
ハリエットが突然現れたことでさまざまな噂が流れ飛びかいました。
これを皇帝への嫌がらせだと悪趣味に解釈する者が多かった。
またかつての美女がどうしてまたあんなに太って醜くなった姿を晒すのか、若き日の魅惑的な姿を人々の記憶に残すほうが良いではないか、そう言って首を傾げる者もいた。
実はハリエットは癌にかかっていて、その身が永遠の闇に包まれる前に、かつての栄光と名声の地をもう一度訪れたいと思ったのだった。
パリ行きのあとまもなくハリエットは亡くなった。