(エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァ 1847〜1922)
エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァは1847年11月14日に没落貴族ドルゴルーコフ家のミハイル・ミハイロヴィチ・ドルゴルーコフ公爵とヴェラ・ヴィスネフスカヤの娘として生まれました。
エカチェリーナの父親、ドルゴルーコフ公爵がなんの財産も残さずに死亡すると、時のロシア帝国皇帝アレクサンドル2世は、ドルゴルーコフ公爵の娘エカチェリーナとその妹が貴族女学校、スモーリヌィ女学院の寄宿生となれるよう取り計らってあげました
1864年48歳のアレクサンドル2世はスモーリヌィ女学院を公式訪問します。
その時16歳のエカチェリーナを見て一目惚れしました
当時のエカチェリーナの容姿に関しては、
「中背で洗練された容姿をしており、柔らかな白皙の肌、怯えたガゼルのような眼、官能的な口元、明るめの栗色をした豊かな髪の持ち主」
と言われており魅力的な女性へと成長していました
アレクサンドル2世は学校を訪れてはエカチェリーナを散歩や乗馬に連れ出しました。
その後、アレクサンドル2世はエカチェリーナを結核に悩まされる皇后マリア・アレクサンドロヴナ付きの女官に任命しました。
アレクサンドル2世とその妃、マリア・アレクサンドロヴナはその当時珍しい恋愛結婚でした
当時皇太子だったアレクサンドル2世がドイツを訪問した際に当時14歳だったマリアに一目惚れ母親の反対を押し切り結婚しました。
マリアは呼吸器官が弱く、咳や周期的な発熱に苦しみ、そもそもロシアの気候が合いませんでした
それにも関わらず、マリアは8人の子供を産みました。
しかし絶え間ない妊娠はマリアを弱らせ、医師からもうこれ以上アレクサンドル2世との間に子供を作ることを禁止されました。
そんな時アレクサンドル2世はエカチェリーナを見初めたのです。
エカチェリーナはアレクサンドル2世のことが好きで、彼と一緒にいるのを楽しんではいたが、大勢いるお手付きの女の一人になるのは嫌でした。
母ヴェラとスモーリヌィ女学院の学長は、エカチェリーナに家運再興のための機会を逃さず、皇帝の寵姫となるよう説得します。
アレクサンドル2世は1865年に後継ぎの長男ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公を亡くし、また暗殺未遂にも遭遇して、すっかり気落ちしていました。
皇帝の嘆き悲しむ姿に心を動かされたエカチェリーナは、1866年7月に18歳でアレクサンドル2世の愛人になりました。
正式な愛妾となったエカチェリーナをアレクサンドル2世は激しく愛し、エカチェリーナとの間に生まれた3人の庶子たちと一緒に冬宮殿に住んでいました。
さらにアレクサンドル2世はエカチェリーナのヌードまで描いています
アレクサンドル2世とその妻マリアの間は冷え切っており、エカチェリーナの出現により、アレクサンドル2世はますます妻に冷たくなりました。
エカチェリーナはアレクサンドル2世の親族や宮廷の人々から激しく非難され、嫌われていました。
ある宮廷人などはエカチェリーナを〝下品で醜い〟とまで蔑んだ。
しかしエカチェリーナとアレクサンドル2世は仲が良く、15年に渡って怒涛の性生活を送った。
エカチェリーナとアレクサンドルは並外れた好色なカップルだった。
〝脳みその代わりに藁が詰まっている〟と評されたエカチェリーナは皇帝より30歳も年下でセックスが大好きでした。
1870年、皇帝はエカチェリーナ宛の手紙にこう記している。
『余がどうなったか、そなたはその目で見ただろう。同じように余もまた、そなたがどうなったか見た。二人はまるで飢えた猫のように激しく貪りあった。朝も、昼も、気が狂いそうになるほど甘美だった。悦びのあまり今でも叫び出したいほどだ!余は骨の髄まで満足した。』
1876年アレクサンドル2世は健康を損ねた。
原因は性的な方面の行き過ぎで58歳の身体が消耗されている、と侍医は指摘した。
この年、エカチェリーナはアレクサンドルとの間に3人目の子を妊娠しており、出産のあとしばらくはセックスできないことを嘆いていた。
『陛下のお情けを頂けないのでしたらわたくしは生きてはいけません。6週間が過ぎましたらあらためて陛下のお情けを注ぎ込んでいただけますようにと願っております。』
なんか気持ち悪いですね。。
1880年、冬宮殿の近くで爆発が起きて正餐室が揺れたとき、アレクサンドル2世は
「カーチャ!(エカチェリーナのこと)愛するカーチャ!」と叫びながら階段を駆け上がってエカチェリーナの部屋へ走りました。
エカチェリーナは無事でしたが、一方で死を目前にした皇后マリアは朦朧として爆発にも気づけない状態だったのにも関わらずアレクサンドル2世はマリアを全く気にかけませんでした
その年の6月8日に皇后マリア・アレクサンドロヴナがその寂しい生涯を55歳で終えました
亡くなったマリアの死から1ヶ月も経たないうちにアレクサンドル2世はエカチェリーナと再婚しました
友人と親族が規定の喪服期間を守るように進言しましたがアレクサンドル2世は無視しました
アレクサンドル2世は6回も暗殺されかかったので、また襲撃されて命を落とす前に美しいが愚かで傲慢なエカチェリーナを一刻も早く正式な妻に迎え、エカチェリーナの産んだ子供たちを認知したかったのだ。
結婚して8ヶ月後、アレクサンドル2世は本当に爆弾を投げつけられた。
アレクサンドルの手足は押し潰され、足は裂けていた。
医師団の治療も虚しく皇帝は亡くなった。62歳だった。
皇帝暗殺後、一人の廷臣はこんなコメントを残した。
『皇帝が暗殺されたことで、皇帝はエカチェリーナのためにさらなる愚行を重ねずに済んだ。あの女が皇妃になれば祖国の恥さらしだった。』
葬儀では、エカチェリーナと子供たちは教会の入り口に立たされ、皇族の席を与えられなかった。また、エカチェリーナ母子は皇族による皇帝追悼の聖体礼儀に出ることも禁じられた。
皇帝の死後、エカチェリーナは年金を貰い、パリに亡命した。
そして1922年2月15日74歳で亡くなった。