19世紀末ーベル・エポック華やかなりしパリ。
ひとりのクルティザンヌが20年もの間、半社交界の女王として君臨した。
その女性の名前は、リアーヌ・ド・プージィ。
リアーヌは自分の肉体を法外な値で売りつけたが決してその心と魂は売りはしなかった。
さらに41歳でルーマニアのギガ大公と結婚し、本物の大公妃(プリンセス)となりヨーロッパの多くの貴族と縁続きになった。
リアーヌは1869年7日2日にフランスのラ・フレーシュでアンヌ・マリー・シャッセーニュとして生まれた
リアーヌの父親は軍人であり、兄も軍人。厳格な保守的な家庭だった
家は貧しくアンヌ・マリーは9歳で聖アンナ修道院に入学
この修道院では学業が奨励されており、アンヌ・マリーはここで外国語、歴史、会話術など後のクルティザンヌとしての教養と品格を身につけるようになる。
アンヌ・マリーはこの会話術を完璧に駆使して皇太子や国王の寵愛を得ることになるのである。
16歳で聖アンナ修道院を卒業すると軍人の娘であるアンヌ・マリーはやはり軍人となかば強制的に結婚させられた
夫となったアルマン・プルプはアンヌ・マリーを手荒に扱いDVをおこなった。アンヌ・マリーは〝強姦されるように処女を失った〟と書いている。
翌年には妊娠、息子を出産。
しかしアンヌ・マリー自身は女の子を望んでいたし、さらに彼女は母性本能などは持ち合わせてはいなかった
出産後夫はマルセイユに転勤となった。当時のマルセイユは賑やかな港町で「東洋の門」と呼ばれ異国情緒と刺激に溢れていた。
この人生や未知のものの呼び声はやがてアンヌ・マリーの貞操観念を凌ぐようになった。
プルプ夫人となったアンヌ・マリーはこの町で初めて夫を裏切り、海軍将校クロノン大尉を愛人にした。
しかし夫はベッドにいる2人の現場を押さえられ、さらに夫はアンヌ・マリーに向かって拳銃を発射した。弾丸はアンヌ・マリーのお尻に当たった
これをきっかけにふたりは離婚した。1889年からアンヌ・マリーは法律上、自由の身になったのだ
アンヌ・マリーはこのチャンスを逃さず、息子を両親に預けて、わずか400フランだけを持って自由と贅沢を求めてパリの街へと降り立った。
その時彼女はちょうど20歳だった。
19世紀末当時のパリは真に世界の都だった。
アンヌ・マリーは若さと美貌と知性を武器にパリのクルティザンヌを目指した。
当時パリにいる娼婦は8万人。しかしクルティザンヌと呼ばれる高級娼婦はわずか40人ほどだった。
金持ちのパトロンに囲われ豪奢な生活を送るクルティザンヌたちは娼婦たちの羨望の的だった
アンヌ・マリーは名前を貴族風にリアーヌ・ド・プージィに改めてはじめの数ヶ月は安宿で身を売って娼婦修行を積み、やがて、金や身分ある男たちの相手をするように
リアーヌは豊満な女性が尊ばれた時代にスリムどほっそりした身体をいつまでも保つという幸運を授かった。
やがてリアーヌはセンスが身に付き、ナポレオン3世の最後の愛人だった有名なクルティザンヌのひとりヴァルテス・ド・ラ・ビーニュに気に入られた。
同性愛の傾向もあったリアーヌとヴァルテスは恋人同士となり、ヴァルテスはリアーヌに娼婦業のいろはを教え、半社交界へと迎えた。
しばらくするとリアーヌは師であるヴァルテス・ド・ラ・ビーニュを凌ぐようになる。
リアーヌはもっぱら大貴族や資産家を相手にした。ツタンカーメンの王墓発掘したエジプト学者カーナヴォン卿もリアーヌの客の一人だった。
そして見返りにリアーヌは10万フランもの見事な真珠を手に入れた
美貌は、快楽を惜しみなく与える時、多くの扉を開く鍵となり得る。ジャーナリズムの扉も然り。
1891年にリアーヌは美と快楽と永遠の若さの化身だった。
リアーヌは半社交界の新聞の社長や編集者とも関係を結んだおかげで(今で言う枕営業)、リアーヌの記事が「ジル・プラス」紙面を埋め尽くすことになる
リアーヌの凄まじい高級志向と浪費は留まるところを知らなかった
(日本の着物をきたリアーヌ)
1891年4月23日のゴシップ欄にはリアーヌがマク=マオン侯爵シャルルを愛人にした。
そしてマク=マオン侯爵はリアーヌに貢ぎ過ぎて破産。その5年後に彼は死んだ。
そしてリアーヌを独り占めしようとした多くの資産家が破産や自殺へと追いやられることになった。
1894年25歳のリアーヌはフォリ=ベルジェール劇場の支配人の後援を得て舞台女優としてデビューした。
リアーヌはプレゼントされた宝石類だけで数百フランを超える財産を持ち、「美の女神」としてヨーロッパ中のウィンドーに写真を飾られた。
その後も舞台女優として人気を博し、1889年には初の小説「忘れがたき人々」を発表し作家デビューを果たした。
自叙伝的なこの小説は大ベストセラーになり28歳の女盛りのリアーヌは知性も教養も兼ね備えた
19世紀の「最高の美女」と褒め称えられた。
マルセル・プルーストやジャン・コクトーはリアーヌに夢中になり、プルーストに至ってはリアーヌをモデルにして小説『失われた時を求めて』を書いた。
リアーヌはいくつになってもほっそりと美しく、本人すら自分が永遠に若く美しいと信じ込んでいた。
1902年、リアーヌは33歳である。
娼婦業を始めて13年たった。片時も休まず成功を追い求めてきたのは未来の苦しみ、明日への不安から逃れるためだった。落魄れて極貧のうちに悲惨な最期を遂げていく例を嫌と言うほど見てきた。
しかしリアーヌは陰気なもの、苦しみや悲しみを喚起させるものはみな嫌いだった。好きなのは白と青と薔薇色
リアーヌは美容にも非常に気を配っている。リアーヌは激しいショックを受けると肉体が消耗すると考えていた
リアーヌの身長は168センチと長身だが足は24センチと小さく美しかった。
さらにリアーヌはコカインと阿片の乱用者であり、何度も自殺未遂をはかっている。
いつも自殺未遂には阿片チンキを使用していた
その度にゴシップ誌にリアーヌの記事が載る。。
1910年リアーヌは40歳になった。
ルーマニアのプリンス、ギガ大公と春に出会い、手懐けて
6月に15歳年下のジョルジュ・ギガ大公と結婚し、リアーヌは41歳で大公妃、本物の貴族のプリンセスとなった。
だがクルティザンヌが年下のプリンスを陥落させて玉の輿に乗ったことを社交界は許容せず連日リアーヌを皮肉る記事が載った。
ひたりはスキャンダルから逃げるためアルジェリアに住んだ。
1914年第一次世界大戦が始まった。華やかなベル・エポックは終わったのだ。
第一次世界大戦の始まりと共に多くの貴族が没落していった。
それと共に華やかなクルティザンヌの世界は消えた。
さらにリアーヌが捨てた一人息子は戦死した。
そして次第にギガ大公夫妻は別居するようになった。リアーヌは自分が生きる屍だと考えた
夫であるジョルジュ・ギガ大公が死ぬとリアーヌは修道院に入り、シスター・アンヌ=マリー・ド・ラ・ペニタンスとなった。
改悛のアンヌ=マリーという意味だ。
リアーヌのライバルだったクルティザンヌ、ラ・ベル・オテロは90歳まで生きたが博打に全財産をつぎ込み、晩年は無一文になった。
さらにエミリエンヌ・ダランソンに至っては麻薬中毒となり貧困のうちに死んだ
1950年81歳で世を去るまでリアーヌは敬虔なキリスト教徒として生きたのでる。
「フランスの宝」と称えられたリアーヌはまことに気品に満ちた、天使のように美しく優雅な女性だった。
リアーヌはパリにいる8万人にのぼる娼婦たちの頂点でまばゆく輝く希望の光だった。