1957年(昭和32年)作家の川口松太郎は夜の銀座に生きる女性たちをモデルにした小説、『夜の蝶』が大ヒットし、映画化された。
この映画『夜の蝶』もまた大ヒット。京マチ子や山本富士子が夜の銀座のマダムを演じた。
この映画をきっかけに水商売の仕事をする女性・ホステスやキャバクラ嬢を〝夜の蝶〟 と呼ぶようになった
この小説のモデルは実在する人物で、白洲次郎など大物もモデルになった。それになんといっても山本富士子が演じた舞妓出身のバーのマダムのモデルがおそめさん、上羽秀さんです
上羽秀さんは大正12年生まれ。
裕福な石炭問屋の長女として誕生しました。西陣小町と褒めそやされた美貌の母に似て、可愛い秀は、家族の誰からも愛されて育ちました
特に家を仕切っていた祖父からは溺愛され、秀は生まれると同時に家中における絶対権力者の愛情を無条件で勝ち取った。
年子で生まれた妹に対して祖父は秀ばかり可愛いがり、妹には冷淡だったと言われている。
秀がまだ子供のうちに両親は離婚し、母親に秀は引き取られた。そして尋常小学校を卒業すると進学を拒否し、秀は「舞妓さんになりたい」と言い張り、新橋で舞妓になるための修行の日々を過ごした。
特に戦前はいわゆる玄人と素人の間には大きな壁があった
昔の芸者は物の値段を知らぬように育てたそうです
世間の日常を感じさせぬように、芸者らしい張りと意気地を持った女になるようにと秀は手塩にかけて育てられた。
15歳の時、秀の芸者としてのお披露目を控えた頃、母親の強い意向により、新橋ではなく京都、祇園から店出しすることに決まった。
秀の見習い茶屋は「玉川屋」に決まった。
現在も格式あるお茶屋として有名な「一力亭」や「富美代」に続く格式を誇る茶屋であった。
艶やかな黒髪を島田に結い上げ、黒紋付の引き着をまとって屋形の玄関に秀は立った。
憧れ続けた芸妓の正装である。秀は鏡に映る自分の姿に満足した
秀に与えられた祇園での名前は「そめ」。祇園芸妓おそめの誕生である。
秀は実際店出しと同時に売れっ妓になった。
美しく装いだ秀には座敷の華やかな空気が心地よくてならなかった。
男たちが自分の器量を褒めそやし、女たちが嫉妬の入り混じった視線を向ける。
それは秀にとって何物にも替え難い快楽であった。
秀の客は祇園町でも一流どころでおのずから接する客の層が決まり、それはそのまま祇園芸妓おそめの格になった。
戦前の花街では芸舞妓の処女を売る水揚げといわれる慣習を避けられたものはおそらく一人もいない。
秀の旦那には松竹創業者の一族である白井という人物だった。
しかし秀はこの水揚げや旦那を持つという慣習に強い嫌悪感を抱いた
しかし秀は祇園町において肩上げの似合いそうな細い体に憂いを含んでますます美しくなっていく、白井という旦那を嫌悪しながら、その一方で白井の惜しみない寵愛と贔屓を受けてますます廓の中で光り輝く存在となっていった。
誰よりも豪奢な着物をまとい、誰よりも優美に振る舞えた。
旦那である白井は一流の呉服屋を呼び、一年を通して二日と同じものに袖を通さずにすむほど大量の着物を買い与えた。
秀の魅力について妹は語った。
「品格、というか雰囲気が独特なんです。それが人さんを惹きつける。だから姉はそのために生まれてきたような人です。人さんに好かれるという能力を持っている」
秀は旦那である白井との関係を終わらせ、カフェーの女給になった。そこであまりにも秀を指名する客が多いため、京都の仏光寺に自分のバーを持つことにした。
そこも手狭になったので、33歳の時銀座3丁目に、男たちの無償の援助と女たちの激しい嫉妬を買いながら銀座「おそめ」は誕生した
開店を告げる挨拶状は、秀を祇園時代から贔屓にしてきた吉井勇が代表して書いた。
吉井勇はおそめの大ファンで、「おそめ囃子」、「おそめの四季」など二曲の歌の作詞を担当した。
「おそめ」の客は戦前から名を知られた国民的作家というべき大御所たちが集った。、川端康成、中山義秀、吉川英治。。さらに政治家の石田博英、吉田茂、佐藤栄作、田中角栄、中曽根康弘にいたるまで。。
政界の大物、影の首相、フィクサー、三浦義一はおそめに惚れていたと言われている。
すでに70に近かったが、戦前の花柳界、戦後の銀座で派手な噂を振りまいた三浦もまた秀に対してだけはまるで初恋の少年のような初々しさで接した
そして2年後には銀座の一流高級店として定着することとなった。