女性が音楽家になることが難しかった19世紀に最も優れたピアニストととして活躍しました。
当時は自分で作った曲を自分で演奏するのが当たり前でしたが、クララは自分の作品以外の曲をコンサートで演奏しました
〝作曲家と演奏家を分ける〟
今では当たり前のスタンスを作ったのもクララの功績です。さらにクララはユーロ紙幣になる前のドイツ紙幣の顔にもなったこともあり、現在も世界中から愛されているピアニストです。
彼女は一体どんな人生を送ったのでしょうか?
クララは1819年9月13日ドイツ東部ライプツィヒにピアノ教師フリードリッヒ・ヴィークの娘として生まれました。
母親、マリアンネはピアニスト兼歌手でした。
父フリードリッヒは産まれた娘を〝クララ=光輝く〟と名付け、クララを第二のモーツァルトにすべく英才教育を行うことを決めていました。
さらに父親は妻や子は夫についていくべきという考えの持ち主で母親マリアンネはクララが4歳の時に離婚し家を出て行ってしまいました
クララは5歳から父親から本格的なピアノレッスンを始めました。
さらに7歳頃からは一流のピアニストになるために必要なフランス語と英語を学び始めました
父親はクララにピアニストに必要な体力をつけるため1日3時間の散歩することを課しました。
1828年、クララはケヴァントハウスの演奏会でプロデビュー
この時クララはわずか9歳。女性ピアニスト、クララ・ヴィークが誕生した瞬間でした
クララは天才少女として有名になったその頃未来の夫、ロベルト・シューマンと出会います。
当時のロベルト・シューマンは17歳でライプツィヒで法律を勉強している学生でした。
クララ・ヴィークの名前はますます評判になり、ドレスデンの宮殿の王族や貴族の前で演奏し、宮廷に認められたピアニストになりました。
ロベルト・シューマンは法律家ではなくピアニストになるべく、クララの父フリードリッヒのレッスンを受け始めました。
ロベルト・シューマンはレッスンの合間にクララや弟たちの遊び相手になってあげ、普通の子供らしい遊びをしたことがないクララにロベルトは外の世界を初めて教えてくれる人となりました
ロベルト・シューマンは一流のピアニストになるための厳しいレッスンのせいで指を痛め、ピアニストになる夢を断たれてしまいました。
それでロベルトはピアニストを諦め、作曲家になることを決意しました。
ロベルトはクララの家の近くに住み、ふたりは毎日手紙を書き合いました。
クララが16歳になった時ふたりは恋人同士になりました。
1835年ロベルト・シューマンは25歳。16歳のクララにプロポーズ
しかしクララの父フリードリッヒはロベルト・シューマンの才能は認めていましたが、収入が不安定なこと、精神が不安定で傷つきやすい感受性の強さを懸念し、ふたりの交際に大反対
しかもロベルト・シューマンの家では悲劇が多いのも原因でした
何故かシューマン家の兄弟たちは皆短命でロベルトの姉エミーリアは原因不明の皮膚病にかかり、川に投身自殺しました。
クララとロベルトは8人の子をもうけますが、三男フェルディナントは父ロベルトの精神障害が部分的に遺伝し、そのことが原因で自殺しています。
またロベルトは子煩悩だったが、クララ自身は子供は3〜4人で十分だと考えていた
(クララが生きた時代の流行のファッション)
父親フリードリッヒの反対のせいでふたりは会えなくなりました
しかしクララはピアノが弾けなくなったロベルト代わりにロベルト作った曲を演奏しました。ロベルトもまた有名な「謝肉祭」やピアノソナタ第一番を作曲しました
クララは19歳にの時オーストリア皇帝の前でも演奏し、「帝王室室内楽奏者」という芸術家として最高の称号を与えられました。
いつまでもふたりの結婚を認めない父フリードリッヒに対し、1839年裁判で争い、一年の争い、1840年8月ふたりは晴れて結婚することが認められました。
クララは20歳。ロベルト30歳。ふたりはこの上ない幸福につつまれていました。
1840年代クララはひっきりなしに妊娠し、ロベルトの子を8人産みました。
ロベルトも作曲家として認められていく一方で、ロベルトは心身を病んでいきました。。
幻聴、ひっきりなしの震え、死を極端に恐れ始めた
1846年には、幻聴や耳鳴りのため作曲できなくなり、双極性障害の症状も現れるようになった
クララの方がロベルトよりも2倍も多いこともロベルトのプライドをズダズタにしました。
内向的なロベルトは幻聴やめまいや精神障害に襲われ仕事が完全にできなくなっていきます
重度の神経衰弱になってしまっていました
ロベルトを愛しているクララはいつも自分よりロベルトのことを考えていました
しかしロベルトの具合はますます悪くなり、自ら精神病院に入院する決意をしますが、入院前にライン川に飛び込む自殺をはかってしまいます。
ロベルトの病気、それは梅毒でした。
感染時期は1830〜1831年とごく若い頃ロベルトはライプツィヒで様々な女性と性交渉しており、この時期に梅毒に感染した、と言われている。
結局ロベルト・シューマンは梅毒による全身麻痺で1856年46歳で死去した。
残されたクララはまだ36歳でした。
クララは子供たちのため頻繁に演奏会を開き、演奏会では必ずロベルトの曲を弾きました。
1896年クララ・シューマンは76歳で永眠。
天才少女は愛しい人の恋人となり妻となり子供を育て、様々な試練を乗り越えました。
そして名もなき青年だったロベルト・シューマンを偉大な作曲家として世に送り出し、クララ自身も19世紀を代表するピアニストとして新しい道を作りました。
〝ふたつの心に一つの魂〟と言われたクララとロベルトは同じ墓に埋葬されました。40年の時を経て再び一緒になれたのです。
仕事と家庭の両立を叶えた姿は現代の女性たちの目にも尊敬すべき存在となりました。
またクララは音楽教師として多くの生徒を育てました。