心優しい勇者たちへ



「今ここ」に自分を合わせ

「素直な心」にチューニングする

森山華伊です。

 


見るからに可哀想…


明らかに大変そう…


どう見ても被害者…


という立場にならない限り、


「自分が傷付いている」ということを

分かってもらえないと思い込んでいる

ということがあります。


 

そしてさらに、

「自分が傷付いている」ということを

誰かに分かって欲しい

という思いがあると…



自分は本当は傷付いていて

「辛い」ということを証明するために、

無意識のうちにトラブルや病気を

招き入れていることがあるのです。



そして皮肉なことに、

欲しい反応は得られない。



今回は、

『苦痛の証明よりも』と題し、

「素直に心を感じることの大切さ」

「弱者と従者の関係性」について

話をしていきたいと思います。




  世界は自分の心でできている


「辛い」ということを

言葉にするのではなく、

自分を変形させることで

伝えようとすることがあります。



無意識で

「可哀想な人」に自らなり

可哀想な自分を感じられる現実を

創っている。


無意識の自分が

意識上の自分に気付いて欲しくて、

あえて可哀想な自分になることを

仕向けていることがあるのです。



何故かというと、

無意識の自分が意識上の自分に

「辛い」と認めて

言葉で気持ちを吐き出して欲しいから。



可哀想な自分になることで

正当に「辛い」と言いやすくなる。


正当に「辛い」と言うために

可哀想な自分になっている。



つまり

可哀想な自分になることは、

言葉にできなかった、

「辛い!助けて欲しい!」の

裏返しとも言えます。



そして、

自分が傷付いていることを

誰かに分かって欲しい

ということは、

 

自分が傷ついているということを

認めることができていないから

ではないかと思うのです。

 


もし自分が、

自分の傷付いた心を認め、

痛みを感じ、

ケアができていれば、

誰かに分かって欲しいとは

思わなくなっているでしょう。



ケアとは、

「何がどう嫌だったのか?」

「どうなって欲しかったのか?」

「これからどうなって欲しいのか?」

「自分はどうしたいか?」

 

…ということを自分に問いかけ、

自分なりの答えを見つけて、

それに基づいた行動をしたり

在り方を変えたりしながら

自分を整えるということです。


 

そうするうちに

ベクトルが内から外に向き、

誰かに分かってもらう

(誰かにどう思われるか気にする)

ことよりも、


「楽しいことを分かち合いたい」

と思うようになります。

 


「楽しくしなきゃいけない」

「楽しませなきゃ相手に悪い」

ではなくて…


「楽しい時間を過ごしたい」

という気持ちが湧いてきます。

 

 

自分の痛みは、

自分にしか分かりません。

 

そして他人の痛みもまた、

その人にしか分からないのです。




誰かに分かってもらう前に

まず自分が自分を

分かろうとすることが

大事だと思います。

 

そうしてはじめて、

他人は自分を分かってくれる。

 

痛みそのものは分からないけれど、

「自分が傷ついた」ということを

分かっていてくれる。


共感の輪ができる。

 

そして

「優しさ」

(理解したい気持ち)をくれる。


他人が自分に

「優しさ」をくれるのは、


自分が自分に

「優しさ」を与えていた

(与えている)からです。



「世界は自分の心でできている」

というのは

こういう目に見えない働きが

あるためです。


 

ただし、

「他人に弱音を吐くな」とか

「他人を頼ってはいけない」

という話ではありません。

 


弱音を吐いても

頼ってもいいのですが、

自分の傷を分かっていない限り

他人に分かってもらおうとしても

欲しい言葉や反応は

得られないという話です。



自分の人生を

自分で操縦するためには、

「自分が自分を分かろうとする

意識をもっていること」

が大前提。


そして、

自分が自分を分かるにつれ

他人に分かって欲しいとは思わなくなるか、


一人で抱えられないことが分かれば、

「助けて欲しい」と

素直に求めることができます。


この時、

「自分の全てを分かってもらいたい」

という期待があると

「全て」というのは苦しみを生む

(「絶対」「いつも」も同じ)ので…


というのも、

「全て」分かってもらえなければ、

「一部」の理解を得られても

意味がないと思ってしまうことに

なるから…


願いは放っても

期待(=執着)しすぎないのが

心の安定にはいい心掛けでしょう。



自分を分かるにつれ、

苦痛を分かってもらおうとする

エネルギーは

楽しさを分かち合いたいという

エネルギーへと、


または

助けを外へ求めるエネルギーへと

解放されていることに気付くでしょう。

 



  いじけたり大人ぶるのは要注意


弱音を吐くのも頼るのも、

無意識の本当の目的は、

「自分が自分を分かること」

だったりします。


 

ここで

注意したいことがあります。


それは、

「いじける」とか

「大人ぶる」(強がる)ことがある

ということです。

 


いじけたり大人ぶることで

「シャットアウト」や

「平気なフリ」をする。

 

これは、

解決とは言えません。


 

本当は分かって欲しいのに、

「どうせ分かりっこない!」

「私のことなんて

ほっといてちょうだい!」

といじけたり…



本当は分かって欲しいのに、

「別に気にしてませんけど」

「そんなことで傷付くほど

柔ではないんで」

と大人ぶって

(強がって)いるのは…



かえって解決を遅らせている

かもしれません。



「本当の気持ち」を蔑ろにして、

周囲に壁を作ったり

自立しているフリをしているからです。



平気ではないのに、

平気なフリをしていると…


トラブルや病気の種を撒き

知らず知らずのうちに

その種を育ててしまっていることが

あるのです。

 


①自分で自分の傷を分かっていて、

②誰かに分かって欲しいとは

本当に思っていない

③それより楽しい話を

分かち合いたいと

本当に思っている

 

という状態ならば

自然なのですが

 

そうでないのだとしたら、

本当の自分と外面の自分とに

ギャップやねじれが

生じているでしょう。

 


まずは

自分から湧く心を

素直に、自然に、感じましょう。


 

 

トラブルや病気になるまで

自ら追い込み、

誰からも同情を向けてもらうような…


見るからに分かりやすい

「可哀想な人」になる必要は

ありません。



「可哀想な人」になるよりも

「可哀想な自分の一部」を

自分で気付いて、認めて、

救ってあげましょう。



「自己憐憫」をする時は

誰に遠慮することなく

豪快にしましょう。



「被害者意識」が中途半端のために、

振り切れず、

モヤモヤが長期化しているのかも

しれないと思うからです。


傷付いたもんは傷付いたのだから

「傷付いた」としっかり感じる。

(感じる時は、相手の真意は

どうだったのかは関係ない)


傷付いたこと自体は事実なのだから

良いも悪いもないし、

正当、不当もありません。


相手の状況(心境)より

自分の心(反応)に

目を向けてみましょう。



感じる時は、

罪悪感で誤魔化したり

大人気ないこととして

抑えこまずに、

思う存分

湧いてくるまま

浸りましょう。



それを感じることによって

人を傷付けるということは

ありません。




そこで

「人を悪く思うのではなく

自分を悪く思うのはいいこと」

という謎の思い込みを持つ人は

多いと思います。



だけどそれが、

自分を苦しめ、

かえって負の連鎖を

作っているのではないかと

思うのです。



また

「人としてあるまじき」と

言われたりしますが…


その正義感や道徳心が逆に

トラブルや病気を招いている

かもしれない。


 

自分の心の傷を認めるために

他人に気付いてもらうために


「可哀想な私」になることで

苦痛を証明する必要はないのです。



  弱者と従者


「可哀想な人」と

その人を「支える人」がいます。


たとえば私の場合、

摂食障害や

ひきこもりになることで、

正当な「可哀想な人」に

なっていたと思います。



それは、

一種の反抗であり、

言葉にできないものの生贄であり、

身を守る救命であり、

ウラミツラミの復讐であり、

心を機械化(決め付ける)する

自己支配であったように

思います。



そして、

そんな私を支える母は、

私の機嫌や幸不幸により、

母自身の機嫌や幸不幸が

左右しているように

感じられ…


私はそれが一番

辛かったのです。



母は母で

楽しくしていて欲しい、

好きなことを

自分のために使って欲しい、

私の状態によって

母の状態が決まることを

息苦しく感じていました。



私が「こうしたい」と言えば

母は言いなりになる。


私の意向に、母は従う。


私はどこかで

それに怒っていたと思います。


母も

「こんなにしてあげているのに、

何が不服だというの!!」

という怒りをぶつけることもしばしば。



私は母に

単に反対して欲しかったのではなく、

「母はどう思うのか」

「私のことは置いておいて、

母はどうしたいのか」を

聞きたかったし、

私に尽くして

自己犠牲して欲しくなかったのだと

思います。




その時は、

うまく言葉にできなかった

というか…


何度となく説明しても母は、

「あなたが苦しんでいるのに

楽しくできるはずないじゃない」

「あなたが辛い時

私も辛くなるの当たり前じゃない」


という感じで、

それ以上建設的に

話が進まなくなるのでした。



そして

うまく伝えられないままなので…



何故か母といると

苛立ちが湧き上がってくる

というのがいつものパターンでした。



当時は、そんな自分が

「おかしい」と思って、

自分の人間性を

疑っていましたが…


今となって思うのは、

その苛立ちも、

ちゃんと理由があったのです。



母は母で、

私のことを心配し、

私と一緒になって

症状の波に溺れたのは…


その盲従も、

ちゃんと理由があったのです。



その苛立ちの裏には

「母(私自身)への思い」が、


その盲従の裏には

「私(母自身)への思い」が、あった。



私も母も

お互いにお互いを、


私を「弱者」にすることで、

母を「従者」にすることで、

時に役割を入れ替えることで、


「自分は必要とされている」

「分かり合いたい」

ということを

確かめ合っていたように

思います。



二人でひとつだから、

離れることが苦しかった。


時を経て今は、

弱者でも従者でもない

「人」対「人」になることが

できつつあり…



相手の状態により

振り回されることが減ったので

随分と楽になったと感じています。



ということで…


①自分で自分を

分かるための意識をもちましょう


②苦痛の証明よりも

素直に心を感じましょう


③「弱者」対「従者」から

「人」対「人」へと

対等な関係を目指しましょう


…という話でした。



もしこの記事が

共感する内容であれば

できる範囲で少しずつ

意識するだけでも

してみてください。



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「今ここ」に意識を合わせて、

落ち着きを取り戻す。

 

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本来の自分を取り戻し

喜び楽しむ日々を

送られますように…。

 

いつもありがとうございます。

 

 

 

摂食障害 & ひきこもり

カウンセリングルーム

『イマココリズム』

 

森山 華伊


 

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