ガダルカナル 8月25日 | cat day afternoon

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子供の成長とガダルカナル航空戦

 ガ島航空戦上: ガダルカナル島上空の日米航空決戦、昭和17年8月-10月/大日本絵画
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ここまで書いたところでこんな本出ちゃった。もろかぶりだよ。



日付が8月25日に変わって10分後、ヘンダーソン基地は沖合約10,000ヤードの駆逐艦から艦砲射撃を受けた。砲撃してきたのは駆逐艦睦月、弥生、江風、磯風、陽炎の5隻だった。約10分間にわたって砲撃すると、撤収していった。十数名の海兵隊員が死傷した。

深夜にも関わらずVMSB-232の3機のSBD-3が駆逐艦攻撃に0230に出撃した。指揮はマングラム中佐がとった。SBDは3発の500ポンド爆弾を投下したが1発は不発、2発は至近弾となった。0400に今度は海軍のSBD3機が出撃し、1発の命中を報告したが、実際には駆逐艦隊に被害はなかった。1機がマライタ島に不時着した。

0430にガダルカナル北180マイルに敵空母1、軽巡1、駆逐艦5を発見の報告がMAG-23に入った。
針路は190、速度は17ノット。
0600に8機のF4Fが8機のSBDを護衛して敵艦隊攻撃に向かうが、敵艦隊を発見できず、西に変針した。
帰途で敵4発偵察爆撃機を発見。モレル大尉とジーンズ少尉がこれを撃墜。
モレル大尉達と交戦したのはショートランドから哨戒に発進していた横浜空の藤原友三郎飛曹長の九七式飛行艇だった。行動調書には0615(0815)に「敵グラマン型戦闘機4機と交戦(内1機白煙)を吐きつつ降下するを認めたるも雲中に入りしため不明 我が方損害戦死1名 二飛 小市三子男 (被弾40)」とある。なお、天候は曇と記録されている。

このころ、ラバウルのブナカナウ基地では、昨日に続いて鍋田大尉指揮の陸攻隊が離陸しようとしていた。機数は木更津空8機、四空6機、三澤空9機の23機だった。任務は「グァダルカナル」攻撃。(※余談だが、三澤空の行動調書では、「ガダルカナル」となっている。)0515(0715)に離陸。(※三澤空行動調書では0615(0815)離陸。)0615(0815)に基地上空発進。
護衛する台南空零戦隊は河合大尉指揮の下12機が0618(0818)にラバウル基地上空を発進。
林秀雄大尉と工藤重敏二飛曹(※この日の台南空行動調書では三飛曹と書かれているが、二飛曹が正しいと思われる。)のペアの九八式陸偵も0630(0830)に発進。攻撃隊に合同した。

0830、SBD隊は4隻の輸送船と軽巡1隻、駆逐艦5~7隻からなる敵艦隊を発見した。これは再びガダルカナルに向かっていた軽巡洋艦神通を旗艦とする日本軍増援部隊と、深夜にガダルカナルを砲撃した駆逐艦隊だった。ちょうど合流して、隊列を立て直しているところだった。実際には軽巡洋艦1と、駆逐艦7、輸送船3、哨戒艇4だった。
8機のSBDが攻撃し、神通が損傷し、輸送船金龍丸が沈没した。金龍丸の生存者を救助した駆逐艦睦月もこの後B-17の爆撃を受け沈没した。増援部隊はついに上陸をあきらめ、北西に避退した。

この時の天候について、当時第二水雷戦隊の首席参謀だった遠山安巳中佐の証言が亀井宏氏著の「ガダルカナル戦記」にあるので引用すると、「当日は水平線から上空まで厚い雲が連なり、わずか上空の一部に青空がのぞいていたような状態だった。」とある。

SBD隊は0900にヘンダーソン基地に帰還した。

1100、ニュージョージア島のコーストウォッチャーから21機の爆撃機が上空を南東に向かうとの報告がヘンダーソン基地に入った。

0915(1115)、ルッセル島(※ラッセル諸島)上空で、台南空の零戦隊は爆撃援護隊形を作る。林大尉の陸偵は攻撃隊を離れ、単機でフロリダ諸島に向かった。
5分後、木更津空の3小隊1番機の栗田道昭一飛曹機が酸素吸入器故障のため引き返した。
0940(1140)、三澤空行動調書によると、陸攻隊はガダルカナル島「ハンタ岬」(※ハンター岬)よりヘンダーソン基地上空に進入した。

海兵隊第3防御大隊の報告では、1152に27,000フィートから25,400フィートで針路000で進入してくる21機の機種不明機に90ミリを発射。戦果確認できず、となっている。ガダルカナル島を迂回して、南海岸のハンター岬から進入し、島を横断して北海岸側のヘンダーソン基地上空に突入したと記録されている日本軍の行動調書と一致する。
MAG-23の戦時日誌によると、「1155 21機の爆撃機が27400フィートから爆撃。戦闘機隊は給油の遅さのために会敵出来なかった。」となっている。前述したとおり、この時のヘンダーソン基地には給油車がなく、燃料はドラム缶から直接ハンドポンプで補給するしかなかった。0900に帰投した8機の給油が間に合わなかったのかもしれない。また、空中早期警戒レーダーもないため、敵の航空攻撃の予報はコーストウォッチャーの報告に頼るしかないが、雲などで不正確になる可能性もあり、何より敵機の進入高度がわからないので、それだけでは不十分である。




ガダルカナルで米軍に捕獲された日本の一号一型電波探信儀。2台設置されていた。レーダー不足に悩む米軍は、修理して使用を試みているが、結局諦めている。

木更津空の行動調書では、「0940(1140) グァダルカナル飛行場爆撃 (1)弾幕中の小型機約8機は撃破と認む (2)飛行場内の高角砲陣地に数弾命中 (3)其の他地上施設を破壊せり」となっている。


台南空零戦隊の行動調書によると、「0952(1152)中攻隊爆撃終了 爆撃直後敵6機を認めたるも空戦を実施せず」とある。フロリダ諸島方面を偵察した林大尉の陸偵も、敵戦闘機4機を目撃している。

カール大尉の自伝によると、「約21機の爆撃機と護衛の戦闘機は、23,000フィート以上でやって来ましたが、しかし、我々はレーダーが不足しており、そして、コーストウォッチャーは、後で申し分なく効果的になるが、この時点では適所にいませんでした。私は、弾を発射することなく、その任務でいらいらする3時間を記録しました。」と書いている。

数機のF4Fが迎撃したようだが、交戦にならなかったようだ。

MAG-23の戦時日誌では「約40発の爆弾は航空指揮所を中心によくグループ化されて落ちた。全航空機は給油後に空中に退避するだけの時間はあった。滑走路と駐機場に軽微な損傷。破壊された航空機は無かった。」となっている。

林大尉の陸偵は1010(1210)に陸攻隊(※この日の台南空行動調書には中攻と書かれている。)と合同。陸攻隊は1130(1330)にショートランド島上空を通過。

ヘンダーソン基地では1330にB-17が1機着陸。ガダルカナルに降りた最初のB-17だった。400ガロンの燃料を補給すると翌朝エスピリトゥサントに帰っていった。

陸偵は1215(1415)に戦闘機隊と合同。零戦隊は1305(1505)に全機ラバウル基地に帰着。陸偵は1330(1530)にラバウル基地に帰着。九八式陸偵の航続力でもラバウルからツラギへの往復が可能なようだ。
一方陸攻隊は1255(1455)ころに基地上空に到着しているが、天候不良のため上空待機となり、1400(1600)に全機ブナカナウ基地に帰着している。直線距離では10キロも離れていない東飛行場とブナカナウで天候が違ったのだろうか?局地的なスコールだろうか?

MAG-23の戦時日誌では、1430にフリーマン少尉がF4Fのテスト飛行中に、救命いかだがコンパートメントから飛び出し(※ドーサルスパインに格納されている。)、操縦不能となって海に墜落した。少尉は無事脱出したが、納入番号02061のF4F-4は失われた。(※VMF-223の戦時日誌では24日の出来事となっている。)

1910、前日未帰還となっていたリード少尉がツラギに無事にいるとの報告。離陸直後の高度500フィートでゼロの攻撃を受け、フロリダ島から2マイルの地点に不時着水した。頭と右肩を負傷し、泳いでツラギに向かい、友好的な現地人に助けられた。28日にヘンダーソンに帰還。この後も任務についているので負傷は軽かったようだ。

この日神通を攻撃したリチャード・マングラム中佐は35歳、ウィングマークを得たのは1929年なので、日本軍風に言うと搭乗員歴13年になる大ベテランである。
マングラム中佐の11月10日付のインタビューの翻訳が、バレット・ティルマン著の「第二次大戦のSBDドーントレス 部隊と戦歴」に出ていたので引用する。この当時のヘンダーソン基地の状況がよくわかる。
「我々は出撃に際してガダルカナルについて何の情報ももらっていなかった。海兵隊の訓練や作戦は、いつも設備のない未整地での任務を想定していたが、そんな我々海兵でも呆れるようなラフな任務がたまにあり、ガダルカナル島がまさにそれだった。」「基地に着いてみると、燃料や弾薬を運ぶ車両は1台も用意されていなかった。燃料のドラム缶や、爆弾を人手で運ぶのだが、そのための人員もいない。仕方ないから搭乗員が自分たちで全部やるのだが、食料も足りないし、人員不足で満足な休息も取れず、隊員たちの体力はどんどん消耗していき、作戦にも影響が出てくるほどであった。」

第六空襲部隊戦闘概報の第五号では、「四、明日使用可能陸攻機数 RR(※ラバウル)木空十二 澤空十三 RO(※カビエン)木空七