「あの“雨の文化祭”が私の原点です。生涯、忘れません」

――35年が過ぎた今も、沖縄の多くの同志がそう語る。

1983年、池田先生が出席して開催された「沖縄平和文化祭」である。

 

約3カ月の練習期間は「雨との戦い」だった。

週末の度に雨が降り、前日のリハーサルも雨で中止。

当日の本番直前、夜来の雨は上がったものの、

会場の沖縄市立陸上競技場には西から厚い雲が近づいていた。

 

「開始時間を早めてはどうか」――提案したのは池田先生だった。

10分早く開幕。未来部の演技が終了した直後、宮古島の友が伝統の

“雨乞いの踊り”を演じていると、偶然にも大粒の雨が降り注いだ。

しかし再び雨はやみ、感動のフィナーレに。絶妙な“天の演出”となった。

 

“恵まれた環境”であれば、これほど皆の心に残り、語り継がれる歴史にはならなかったかもしれない。

困難があったからこそ、「負けてたまるか!」と一人一人の闘志が燃え、心が一つになった。

「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」とは、

池田先生の青年時代からの座右の銘である。

 

困難を前に、諦めずに挑み続ける。

その中で人間は鍛えられ、成長する。

試練を乗り越えたとき、崩れざる人生の原点が築かれ、

広宣流布の道も大きく開くことを心に刻みたい。(結)

 

          名字の言>2018.9.15

          聖教新聞「SEIKYO ONLINE」

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35 師弟の絆は三世に輝く

「最連房御書」日蓮大聖人全集P1340

 

過去無量劫(かこむりょうこう)より己来(このかた)師弟の契約有りしか、我等(われら)末法濁世(まっぽうじょくせ)に於て生(しょう)を南閻浮提(なんえんぶだい)大日本国にうけ・忝(かたじけな)くも諸仏出世の本懐(ほんかい)たる南無妙 法蓮華経を口に唱へ心に信じ身に持(たも)ち手に翫(もてあそ)ぶ事・是(こ)れ偏(ひとえ)に過去の宿習(しょくじゅう)なるか 

 

~通解~
過去世の計り知れない昔から今日に至るまで、師弟の約束があったのであろうか。私たちが末法濁世において、生を南閻浮提の大日本国に受け、ありがたくも諸仏出世の本懐である南無妙法蓮華経を口に唱え、心に信じ、身に持ち、手に大切に持つことができるのは、ひとえに過去の宿習であろうか。

~池田先生のご指導~同志への指針
 広宣流布の師弟は、三世の約束である。いかなる魔軍も絶対に破ることはできない。

大聖人に直結する師弟であればこそ、創価学会は一切の三障四魔、三類の強敵に打ち勝ち、世界広宣流布を開くことができた。84年の大闘争は師弟勝利の歴史である。

 これからも永遠に、師弟という人間性の尊極の魂の結合によって、民衆の凱歌の叙事詩を綴りゆくのだ。

 

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「 南条殿御返事 」 日蓮大聖人御書全集P1578
 
法(ほう)妙(みょう)なるが故(ゆえ)に人(にん)貴(とうと)し・人
貴きが故に所(ところ)尊(とうと)し 

~ 通解 ~
法が妙であるがゆえに、その法を持(たも)った人は貴い。
人が貴いがゆえに、その人がいる所も尊い。
南条殿御返事 1578p.

The Person and the Law 1097p
Since the Law is wonderful, the person is worthy of respect; sincethe person is worthy of respect, the land is sacred.
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「 百六箇抄 」脱益の妙法の教主の本迹 
               日蓮大聖人御書全集P856
 
法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し
 
~ 通解 ~
法が自然(しぜん)と弘っていくことはない。
人が法を弘めていく故に、人も法も ともに尊いのである。
   「 百六箇抄 」脱益の妙法の教主の本迹 
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四 条 金 吾 殿 御 返 事(御書620㌻)
「法華経に云はく 『若し善男子善女人、我が滅度の後に 能く窃かに 一人の為にも 法華経の乃至 一句を説かん。

当に知るべし 是の人は 則ち如来の使ひ 如来の所遣として 如来の事を 行ずるなり 』 等云云。

法華経の一字一句も唱へ、又人にも 語り申さんものは 教主釈尊の御使ひなり。然れば日蓮賎しき身なれども 教主釈尊の 勅宣を頂戴して 此の国に来たれり。 此を一言もそしらん人々は罪 無間を開き、一字一句も供養せん人は 無数の仏を 供養するにも すぎたりと見えたり」(御書620㌻)

~通釈~
法華経に 「若し善男子、善女人があって、我が滅度の後、僅か一人の為に、法華経の一句なりとも 説くものがいるならば、その人は則ち、如来の使いであって、如来の所遣として 如来の事を 行ずる者である 」 と云われているように、法華経の 一字一句を唱え、若しくは人に説き聞かせる者は、教主釈尊の御使いである。

したがって、日蓮は賎しい身ではあるが、教主釈尊の勅宣を蒙って、法華経を弘める為に日本国に生まれた者である。それ故、たとえ一言でも 日蓮を謗る人々は 無間地獄に堕ち、一字一句でも供養する人々は、無数の仏を 供養するにも 勝れている。

 

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<教学> 生命論 「 十界論 」

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女性に贈る100文字の幸福抄 [ 池田大作 ]

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