人間・イエスを描く(ジョルジュ・ルオー)

 

宗教がある種のファッションと化したり、また一部の人々のある種の「心の隠れ蓑」になったりする、言わば本質的動機を逸脱した現象が折々見かけられる今日の宗教界で、極めて稀れに宗教の本質的なことを明示していると思われる人物がいます。画家のジョルジュ・ルオーです。

ジョルジュ・ルオーは戦中に七十代を過ごしていますから、言わば今日的画家といってもいいと思います。その画家が資本主義の発達と同時に宗教性を失っていった世界的な潮流の中で最もキリスト的な、派閥を感じさせない、宗派を感じさせない、ある最も根源的なキリストの意思とでもいったものを感じさせる絵を遺して逝ってくれたことにある驚きを禁じ得ないのです。

ジョルジュ・ルオーが描くキリストはキリスト教が造った人工的なキリストではありません。ほとんど裸のキリストとでもいったような人間イエスです。弟子たちが自分を理解しないことに苦しみ、人々が物理的、かつ具体的な奇跡を起こさなければ、自分をメシアと思ってくれないことに苦しみ、また、いつか死なねばならぬことに苦しみ、また、これら数々の理由によって自分がひどく孤独であることに苦しんでいる人間イエスなのです。

そうして、それはおそらく我々宗教人がほぼ二千年にわたって最も見過ごして来た点に違いありません。キリストをメシアとして拝み、崇拝することは結構なことです。それがむろん宗教の(ここではキリスト教の)最終的な目標であり、帰依であるからです。しかし、それを理解するためにはまず、何を通過せねばならないか。それは人間イエスの傷みを理解することなのです。イエスも生きている間は人間でした。そうしてそのために、そしられ、罵られ、ムチで打たれ、槍で突き刺され、十字架に(はりつけ)にされれば、心だけでなく、むろん躯も傷むイエスでした。そのことをジョルジュ・ルオーの絵は明示しているのです。

そうして、ここで忘れてはならないことはその傷む、傷つく所以が愛のためにあることでした。キリストは愛ゆえに傷つき、愛ゆえに死んだ人でした。ジョルジュ・ルオーの絵はそれを明示しているのです。