神社名:青海神社
別 名:煙ノ宮
祭 神:顕仁尊(崇徳天皇)・藤原璋子命(待賢門院)
創 建:長寛2年(1164)
創 基:伝 福家安明(春日神社神官)
社 格:村社 神饌幣帛料供進神社
住 所:香川県坂出市青海町
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391 621 248*05
電 話:
解 説:
 境内より、白峯稜への参拝道である西行法師の道があり、当社の西隣には春日神社がある。
H P:
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駐車場:無料
撮影日:2019年3月14日
資料等:Wikipedia、現地説明板など、
近隣施設:厳島神社

保元(白峯)伝承のあらまし
 鳥羽院の末期頃、皇位継承をめぐって鳥羽院側と崇徳上皇側とは互いに反目を深めた。一方、藤原摂関家内部においても、関白の忠通と左大臣の頼長兄弟の対立抗争が先鋭化し、保元元年(1156)七月、鳥羽院が崩御すると政治の主(首)導権をめぐって頼長は上皇と結んで兵を挙げた。これが世にいう保元の乱である。この乱を契機として日本の古代律令国家としての秩序は急速に崩壊して、皇権は頓に衰微し、やがて武家による政権へと日本の歴史は大きくその姿を変えてゆくこととなった。
 この戦いに敗れた崇徳上皇は、同母弟・後白河天皇によって讃岐の松山に配流され、以来再び還御の機を得ることなく、長寛二年(1164)八月望郷の思いを胸に慷慨の生涯を配所に閉じられた。宝算四十六歳であった。
 上皇のご生涯を題材とした諸文献や物語・歌など数多く、なかでも保元物語・源平盛衰記・山家集・撰集抄・謡曲『松山天狗』雨月物語などは、その代表をなしものであろう。これらは、世に保元文学とも白峯文学ともいわれる独特の文学的詞藻であるが特に西行が遺した白峯の歌はその先駆をなすものである。
 古来、崇徳上皇には、上皇怨恨の余り怨霊に化身したという壮絶な伝承が広く流布されている。配所幽閉中に五部の大乗経百九〇巻を自ら書写され、これを都に送って自らの赦免を乞われたという。
  浜千鳥跡は都へ通へども身は松山に音をのぞみなく
 この歌は上皇が写経を都に送られる際して詠まれ添え歌である。しかるに権臣信西らに遮られて赦免の官許は得られなかった。上皇は怒りのあまり「今生のことは思い捨て 後生菩提のためにとて 書き奉る大乗経の置く所だに許されねば 今生の怒りのみならず後世までの敵・・」と仰せられて、お舌の先を食い切ってお経の軸毎に「国家滅亡」と血書され、その後はお爪も切らず御髪も剃らず柿色の褪せた衣もほころびに任せ、生きながら天狗の姿となって面相も荒々しくただ悪念三昧に都の方を呪い祈り続けられたという。
 先に述べた謡曲・松山天狗や雨月物語はいずれも西行法師の白峯山陵を題材として構成された謡い物であり読み本であるが、上皇の血書にこめられた無念のご心情を余すところなく表出したものといえよう。上皇の恐霊説話の萌芽については、異郷の配所に不遇のご生涯を閉じた上皇のご無念に対する庶民の共感と鎮魂、また時代問わない王侯、貴族の白峯廟に対する並々ならぬ尊崇が、これらの壮絶な崇徳伝承を育てあげてきた心情的な背景ではなかったかと思われる。
【白峯伝承保存会・坂出市教育委員会】