何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

第四章  ミッションステートメント(私の願い

 

一、私の願い

  

二、自然に感謝

 

三、壊さず、汚さず、浪費せず。

 

四、貧困の撲滅から世界の平和へ

 

仕事を通じて、少しでも貧困の撲滅に繋がる活動を推進し、地球人として助け合える世の中の実現に努める。(貧困が争いを招き、過度の欲求が不満をもたらす。)

 

人は何故争い、人は何故、憎み合わねばならないのだろうか?

 

イスラム教徒とキリスト教徒の宗教間の争いは遠く紀元前に溯るといわれている。歴史上にも有名な十字軍の遠征や今日のインド(ヒンヅー教)とパキスタン(イスラム教)やイスラエル(ユダヤ教)とパレスチナ(イスラム教)でのいつ絶えるとも知れない民族紛争は、国家や民族の争いというよりは宗教間や異文化間の争いという事らしい。

しかし、妙な話ではないか?誰が徹底的に相手を打ち負かすまでの攻撃を仕掛けるように仕向けているのか、何処に徹底抗戦する粘り強いエネルギーを秘めているのか?

一体どこから彼等の血を騒がせ、ほとばしる憎しみが沸き上がってくるのか、およそ理解できるものではない。目を背けざるを得ない殺戮や人権蹂躙の現実を見聞きするにつけて、平和が訪れる事など永遠に夢物語のように思えてしまうのは悲しい限りである。

 

何が彼等を駆り立てるのだろうか?彼等とて、この世に生を享けた時から拭い切れない憎悪を持っていたのだろうか、遺伝子としてDNAに刷り込まれてきたのだろうか?長い長い歴史的伝統として受け継がれてきたものはあるだろうが、多くは親から子へ、子から孫へ、生まれてから後天的に教育や暗示などによって与えられた価値観なのではないだろうか?

そう教える事が当り前で、伝統を守り受け継ぐ事こそ義務であり、民族の誇りであるとする文化習俗は、周囲の全ての者が何の疑いも無く、疑う事を許さない日常として受け継がれてきたのだろう。しかし、如何にマインド・コントロールされたような状態に在っても、人間がその内奥に秘めた人としての基本的な価値観を失った訳ではあるまい。例え異教徒であったとしても、人間を無残な死に追いやり、平気でいられる者ばかりではあるまい。

 

『目には目を、歯には歯を』という価値観が、いつまでも全ての人を呪縛するとはとても信じられないし、信じたくもない。そのような価値観を受け容れる背景は一体、何なのだろうか?

元を辿れば防衛の思想ではないのだろうか?厳しい大自然の中で翻弄され生き長らえて行く為に、僅かな収穫や恵みを仲間内で分かち合えた時は良かったが、より多くの富や収穫を求め、自らの欲求を満たす為に他から収奪することを覚えた邪悪な利己心が、他を圧する武力を蓄え支配者になろうとした時から、争いが絶える事は無かったのかもしれない。

 

人間の欲求にはきりがないともいわれるから、欲求を膨らませる限り、争いが絶える事もないのかもしれないが、人間の奥底にはお互いに認め合い、助け合い、いたわり合い、愛し合いたいという、生きものとしての自然の欲求が在ると信じたい。

 

少ない物資を奪い合わねば生きられなかった貧しい時代はともかく、今日、人類が叡智を集めて助け合えば、争い奪い合わなくても生きて行ける程度の豊かさや技術が備わっているのではないか?武器弾薬を造るエネルギーを食料生産に代え、戦いの労力を助け合いの労働力に転換する事ができれば、平和で安らぎの在る生活を得ることも夢ではないのではないか?

元々、争いは貧しさ故に起こったものではないのだろうか?その日その日の糧を得るのに精一杯で、食料にありつけない貧しい暮らしをしていた時代には、礼儀も節度も有ったものではあるまい。人のことなど構っていられない。先ず、己の命を食い繋ぐことができなければ明日も明後日も無い訳だから、人としての倫理(みち)を説いても空しいばかりだろう。

 

やはり、『衣食足りて礼節を知る。』というのは真理というべきものかもしれない。最低限の生理的な欲求が満たされることが心のゆとりを取り戻す基礎的な必要条件なのではないか。

その為に先ず貧困を撲滅する活動を地球人全員の課題として取り組むことを本気で考えて行かなければ、争いの無い平和な生活は手に入らないのかもしれない。

 

かの松下幸之助氏は『繁栄(豊かさ)を通して人類に平和と幸福をもたらすこと』を念願して、事業の発展に尽くした経営の神様といわれている。

確かに、これまでは物が不足した時代であり、安くて良いものを世の中に潤沢にすることが豊かさへの道であり、人間の欲求が膨らむのと歩調を合わせるように、物質的な豊かさが実現されてきたかに見える。しかし、果たして人類は平和で豊かな生活を手に入れたのだろうか?

富は偏在し、自然破壊や資源の浪費が進み、人工が爆発的に増加する後進国では、食糧難や貧困、更にはエイズなどの病魔に為す術も無い程の苦闘を強いられているが、先進国と言われる国の多くの人にとって、それらは他人事でしかないといえる。

 

考えてみれば日本は豊かになったものだ。筆者が物心ついた頃、敗戦の痛手から立ち直る為に、当時の人々は懸命に豊かさを求めて働いていたが、とても豊かな生活とは程遠い状態だった。特に筆者の育った家庭では毎日の食事にも事欠くありさまで、とにかく腹一杯食べたいとの思いが頭から離れなかったものだ。半世紀も前のことだから当たり前だと言えば当たり前なのかもしれないが、最近の暮らしぶりとは余りにもかけ離れているので、当時を知らない人にはおよそ理解し難い事なのではないだろうか。

 

戦後の荒廃の中から見事に立ち直った日本は素晴らしい国だといえるかもしれないが、決して忘れてはならないのは、戦勝国やアジアの戦禍を受けた国々からの超法規的ともいえる支援の数々だろう。アメリカを始め多くの国が、経済や技術面で便宜を図ったり、戦争責任として償うべき損害賠償額を桁外れに減額してくれたりしたことが、日本が立ち直った背景に在ることを忘れてはなるまい。日本を防共の砦にしたり、安くて良いものを作る専門工場のような役割を果たすように、軍隊を持つことを禁じ、都合の良い利用価値のある属国のようにしてきたのが本当の所だと指摘する向きもあるが、いずれにせよ、日本単独では今日の繁栄はあり得なかったに違いない。それどころか、自らのプランで自己の能力で這い上がって来たというよりも、欧米列強に計画や技術や経済システムや、あらゆることを教えられ、応用することを指導され、ひたすら実行してきただけなのかもしれない。

その為今日の経済危機に直面して、自らの才覚で切り抜けることが難しく、右往左往しなければならないのかもしれない。詰まりは、真の独立国ではなかったのかもしれない。

 

そうは言うものの、いっぱしの工業国として、持ち前の勤勉さと頭脳を活かしてトップレベルの先進国の仲間入りをした経済大国であることもまた事実だろう。我々はこれまでの恩に報いることを考えねばならないのではないか。日本の技術力や経済力を活かして、飢餓や貧困にあえぎ、最低限の生理的欲求さえ満たせないで苦しんでいる人々に手を差し伸べることを考えねばならないのではないだろうか?彼らに技術を伝え、自ら生産し自分達の暮らしを豊かにする術を教え、人工爆発や自然破壊を防ぐ手だてを指導することが先進国としての務めなのではないだろうか?

 

貧乏な国や人々に物を売りつけて、富みを吸い上げることばかりを目論んでも、本当に豊かで安らぎのある生活は手に入らないだろう。富を独占すれば必ず武力を持って奪おうとするものが出てくるに違いないから、争いを無くすには、他から奪う必要が無い様に、地球人の仲間として人間らしい生活ができるように、支援することが確実な方策なのではないか?

周囲の仲間達が豊かにならなければ、我々もまた、単独で豊かに成る事など有り得ないのではないだろうか?

 

我々は自分が携わる事業や仕事を通じて、この世から、少しでも貧困がなくなるような方向に努力を傾け、その上で、共にゆとりの有る平和な生活を実現するよう心がけたいものである。

 

五、我、唯、足るを知る

 

『必要以上の物質的豊かさを求めず、無益な争いは避け、喜びを分かち合うよう努める。』

 

 人間の欲求には際限が無いといわれる。古来、その強い欲求が熱い想いとなって世の中の発展や進歩をもたらしたということだ。鳥のように空を飛びたいとか、月へ行きたいとかいった欲求や、未知なることを究めたいという探求心が、様々な知識や技術を産んできたが、今や科学者と呼ばれる人達の中には、ニーズとしての人間の欲求を追い越して、好奇心や第一発見者という栄誉に浴したいとの誘惑に抗しきれず、禁断の扉をたたく人が出てくるのではないかと危惧されている。

 人間の幸せとは一体どういうことなのか?今こそ深く掘り下げ、人類の共通の価値観として確立しておかねばならないのかもしれない

 利己的な人間が、己の名誉欲や利得の為に人道にもとることをしないようにブレーキを掛けておかねば、何らかの形で行き過ぎない様に統制できる仕組みを講じておかねば、一瞬にして全てが塵埃と化したり、止めようも無い病魔が蔓延しないとも限らない。

 科学技術が進歩したお蔭で、被害の拡大や伝播するスピードは一時代前とは比べものにならないから、僅かな心得違いが、甚大な被害を産むことは容易に想像できる筈である。

 

バベルの塔の神話が本当の事かどうかは分からないが、自己の欲求が膨れ上がり全てを支配できると慢心し、分をわきまえぬ行動を続ければ見えざる手が鉄槌を下すことになるやもしれないという警鐘は、現代にも充分通用することなのではないだろうか。

 

しかし、人間は何故それほどまでに欲求を増大させるのだろうか?確かに、ある種の欲求は世の中の発展や進歩に大いに貢献して来ただろうし、苦境や障害を乗り越えて前進する為の力強いエネルギーにもなるに違いない。

そもそも欲求とは何なのだろうか?生きものが誕生して以来の長い歴史を引きずって、生き長らえる為の本能的な心の動きというものなのだろうか?人間が考える事を知って、知恵を付けて志までに高めたという精神的な欲求と動物的本能のように生命を繋ぐ為の生理的欲求とは、果たして区別の出来る異質なものなのだろうか?

他の生きものと比べた時、確かに人間はただ単に生理的欲求を満たすだけの為に行動しているのではないように見える。どうやらそのような行動は人類が長い歴史の中で身につけ、成長発展させてきたもののようだが、そのような精神的な発展が同時に又とてつもなく慾の深い生きものに変化させてきたともいえるのかもしれない。

正に両刃の剣ということなのだろう。その様に考えると『志』とか精神的な豊かさとかいって人間が高い値打ちを付けている部分は、実は社会や大多数の人間にとって都合の良い欲求のことであって、正しいとか正しくないということとは別の次元の話なのかもしれない。

 

元々欲求とはそういうもので、行動の引き金や推進力となる心の動きが欲求と呼ばれるものなのかもしれない。是非善悪ではなく何かにとって都合が良いか否かが問われるのでるから絶対普遍の良否判定基準など誰にも分からないと言うべきかもしれない。

しかし、それでは都合が悪いので人間が賢く生きる為のより多くの人に受け入れられる判断基準として倫理や社会的価値などが考え出されているのに過ぎないのかもしれない。

 

詰まりは、人間の行動は、その思考を左右する欲求が引き金となっているのであって、社会生活を営むのに都合の良い要因と不都合な要因を区別し、善行を引出す為に考え出されたのが倫理や本質的価値観と言うものなのかもしれない。

欲求の赴くままに行動すれば邪悪なものがはびこることになり、弱肉強食のような獣性が支配する事にもなり兼ねないことを当の人間自身が熟知しており、そこから救いを求める形で宗教的戒律や倫理を考え出したのかもしれない。

行動を決定する心の動きとしての欲求の暴走を防ぐ為に社会的なルールとかモラルといったものを確立する必要が有ったと言う事なのだろう。

 

しかし、実際には生身の人間は、生命誕生の昔からの何としてでも生き延びようとする生存本能を引きずっており、正に動物的本能で行動することを抑え切れないところが見られるようだ。

詰まり、一々考えて行動を決しているのではない部分、刺激に反応するだけの部分も持っている。『人間の下半身には人格が無い。』とか『酒や煙草がなかなか止められない。』ということなどもその現れなのかもしれない。

そういった刺激に対する反応的行動は人間全体が考えているのではなく、極一部の細胞やDNA(遺伝子)が勝手に反応しているのかもしれないが、それでも単細胞の頃から遺伝子情報として組み込まれた繁殖本能やストレス回避や緊張開放の欲求が働いているのではないか。

 

元々欲求というのはそういうものなのかもしれない。一々考えた結果が欲求となって出て来るのではなく、外界からの刺激に対して脳細胞や遺伝子情報が、その反応として欲求を発信し、知恵ある人間は行動する前に思考するという作業によって欲求を制御しているのかもしれない。

その時の調整制御の判断基準が、持って生まれたものだけでなく後天的に学習して身に付けたモラルや価値観なのではないか。

 

人間は慾が深く、利己的である部分を多く持っていて、いつの世にも争いが絶えないのは、実は思考して調整制御している部分が案外少なく、本能的欲求に基づいて行動している人が多いからなのかもしれない。少なくとも幾つかの選択肢を考えはするが結果的に本能的欲求を優先させている人が多いのではないだろうか?

即ち、余り深く考えずに自分に好都合な策を選択することが日常的に習慣となっている人が案外多いのかもしれない。そのような世の中では利己的な風潮が蔓延したり、際限無く欲望が膨らんで不心得者が出て来る事を抑制するのは決して容易ではないだろう。

 

唯、自らの生命を長らえて、子孫を残し、人としての倫理(みち)を踏み外す事のないように且つ、尊厳を保って生きるのに必要なものはそんなに多くは無い筈なのに、人は何故、あの世にまで持っていけないほどの富や名声を得ようとするのだろうか。

 

この世に在るものの、どれひとつをとっても自分のものはなく、全てが自然からの借り物だと言うことを理解せず、自分の体さえが宇宙の大自然の一部である事を知らずに何に執着し、何をあくせく追い求めるのだろうか。

 

『我、唯、足るを知る。』という気持ちで命あることを素直に感謝して、必要以上の物質的豊かさを追い求めず、争いを避けて生きる事が心安らぐ平和な日々への近道である事を確信して、毎日を満たされた気持ちで過ごしたいものだ。

 

六、自然に還れ

 

『全ては大自然からの借り物と心得、消滅する時は自然に返すことを希求する。(次代に引き継ぐ時は借り物であることを忘れぬよう申し送る。)』

 

人は生まれた時からいつか消滅する事を運命付けられている。だれもその事を避けて通る事はできない。幾らか悪あがきをすれば遅らす事はできるかもしれないが、ある日突然予期せぬ形で臨終となることも少なくない。

『死んで花実が咲くものか。』と言う言葉の通り、自ら命を縮めたいと考える者は少ないだろう。できれば不老不死の薬を手に入れて永遠の生命を手にしたいと考えた者も古来少なくないかもしれない。がしかし、永遠の命など、これ程不自然なものはないのではないか。

 

もし仮に、自分だけが不老不死であったとしたら、それ程不幸な悲劇はあるまい。苦楽を共にした連れ合いや友人知人を次々と送り、その最期を見届けねばならないのに、いつまで経っても自分にはお迎えが来ないで、いつも新たな人間関係を築く為の苦労を背負い込まなければならないのだから、いい加減に殺して欲しいと我が身を呪わなければならなくなるだろう。

もし又、仮に知人や友人や全ての人達が不老不死になったら、今度は新たな誕生は人口の爆発だけを招くことになるので、子供を産むことができなくなるだろうし、よしんば、面倒な子供などいらないとしても、長幼の差もなければ若さの代わりの無鉄砲な生きの良さも無ければ、老人の落ち着いた分別も、あったとしてもみんな同じように変化の少ないつまらない世の中になってしまうだろう。

 

勿論殺し合うこともできなければ、奪い合う必要も無いそれは平和な世界かもしれないが何の緊張も無い、努力無しで得られる平和などは無味乾燥な詰まらないものに違いない。

この世の中が貴重で意味の在る世界なのは生命に自然な形で生病老死が存在するからなのかもしれない。

一切の苦楽が無くなったら死んだ方がましなくらい退屈な世界になるに違いない。それこそが自然そのものなのだから、悲しみを和らげる為に少し別離を遅らせたり、虚弱な体を少しパワーアップすることは許されるとして、余り自然の姿に手を加えるべきではないだろう。

 

平均寿命が現代人の二倍ぐらいになっても何とか我慢できるかもしれないが、そんなになると生きの良い成長期に対して成長が止まってからの方が長くなり、多分だらだらと老醜を晒す事にもなり兼ねない。医学が進歩して少しは壮年期を長く出来るかもしれないが、やはり人生に飽きが来るかもしれないから適当に新陳代謝するのが良いのだと思う。

 

 いつか散るからこそ花があるということなのだ。だからむしろ自然体で生きるのがよいのだろう。いつか又、自然に還るその時の為に悔いの無い生き方を心掛け、自分が受けた恩恵を幾らかでも次の世代にお返しして此の世を去る事。

 

 そういうことを代々繰り返し、生命を繋ぐ事が夫々の役目だと認識し、次代に申し送り賢く生きる術や知恵を受け継ぐ事が大切なのではないか。

 

(続く)