何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

第三章  改めて、生きるとは

 

一、生きていること

  

二、生命の流れ

 
三、善と悪と

  

四、生きることの意義

 

五、全ては借り物

 

  考えてみれば、我々一人一人がこの世に生を享けたのは、極めて偶然の結果でしかない。中には望んでこの世に出てきたのではないと我が身を怨む人さえいるやもしれない。

しかし、死は決して偶然ではない。全ての生きものに等しく訪れる、言わば必然のできごとである。面白いことに、偶然である筈の誕生が今日、当たり前のようにかなり正確に予測され、周囲がその一瞬をまるで必然のように待ち受けている。

 

一方、必然である筈の死は、その訪れがいつ現れるか判らず、逃げ出すことも待ち構えることもできない。老衰とかいう形で安らかな死を待つ幸運な人も多いかもしれないが、自分がそのような平安な死を迎えられるかどうかは保証の限りではない。むしろ、全くの偶然のようにある日、突然使いが遣ってくるようなものかもしれない。

 

  誕生と臨終の狭間で、個々人にとっては人生があり、生きるドラマが展開されるわけであるが、人の一生というのは川の流れの一滴の水のようなものかもしれない。

 多くの水が集まり川をなしているが、流れる水は瞬時も留まることが無く、次々と席を譲り、順ぐり順ぐりに流れを繋いでいく。それはまるで、全体として悠久の生命の流れをなしている生きものや自然の息吹とよく似ているのではないだろうか。

 

個々人の人生は全体から見れば取るに足らないちっぽけなものかもしれないが、一滴の水が大河をなすように無くてはならない存在なのだろう。だが、多くの人はそのことに気付かず、自分の人生、誕生と臨終の間が全てだと思ってしまう。

  生れる時も死ぬ時も、他の人の世話にならなければ何もできないことは誰もが知っているが、その間は誰の世話にもならずに自分で生きようとし、自分の力で生きていると錯覚してしまうのかもしれない。

 本当は順ぐり順ぐりに、世話になり世話をして、全体が成り立っているというのに、そうは思わない。誰一人として他の世話にならずに生きられないのに、誰一人として、自然の恵みを享けずに生命を全うすることなどできないのに、そのことに気付かず、全ては自分の努力であり力だと錯覚してしまう。

 

  ひょっとすると、そのことに気付かないのは優れた体力と知力を有する人間という愚かな生きものだけで、他の生きものは何も考えなくても、そのことを肌で感じ本能的に畏敬しているかもしれない。それこそが分をわきまえているということなのかもしれない。

 

自分が生かされていることに気付くのは案外難しいことなのかもしれない。それでも人間は身勝手なもので、自分が窮地に陥ったり、とんでもない惨めな挫折に見舞われた時、初めて、自分の非力を痛感したり、何かに救いを求めたりするようだ。

自分の力ではどうにもならない何かが存在すると感じたり、そんな何かに畏敬の念を抱き、ひたすら頭をたれて祈る。ついこの間まで、自力で人生を切り開いてきたと思っていた人にとっては、それは大変な屈辱かもしれないが、元々自分の力など何も無いのかもしれないし、全てが借り物だと思えば済むことではないのだろうか。

 

考えてみれば、自分が自分のものだと思ってきたものは、すべて天からの授かりもので、自分のものなど何一つ無いのではないか。

肉体も知恵も、人間社会で奪い合っている富も財産も裸で生れてきた筈の人間が自分のものといえるものなど、始めから何も無いのではないだろうか。生命を全うする為に自然から借り受けたものばかりで、できるだけ壊さず、汚さず、浪費せずに又自然に返さなければならないものなのではないだろうか。

 

人間が人間として生きる為に必要なものは使わせて頂かねばなるまいが、その分、自然の恵みと感謝し、大切にしなければならないということだろう。

しかるに、人間はそのことに気付かず、自分の知恵と汗と努力とで手に入れたものだから、すべて所得だとか資産だとかいい、我が物として他を排除し、自己中心に利用することを当たり前と考えているようだ。

 

資本主義経済だとか、競争原理だとか、他の生きものからすれば何とも理解しがたい理屈をつけて、自然の恵みの分捕り合戦を展開している。

有り余る自然の恵みを独占したものは、その利権を防衛する為に他を圧倒する武力を持ち、貧困に喘ぐ他者に対して見下すように施しを与えているようでは、何かが間違っていると言わざるを得まい。

  何故なら始めから人間の持ち物などどこにもないのだから、全ては借り物なのだから、与えられた生命を全うする為に知恵や力を合わせて、次代にその流れを引き継ぎ、自然が尽きるまで少しでも生き長らえることこそが命あるものの使命と考えねばならないのではないか。

 

  もし、他より多くの知恵や優れた体力を授かったものは、その知恵や体力を他より有意義に活かさねばならないということなのだろう。

 もし、生まれ出でた所が大きな権力や資産に恵まれた所であれば、その資産や権力を乱用せず、有意義に活かさねばならないだろう。自分や自分の限られた身内だけのものとして独占し、利用しようとすることは、もし天が、神や仏が存在すれば、その望む所ではあるまい。

 

 そのような恵みを有意義に活用してくれるものと見込んで、天が貸し与えたものと考えるべきではあるまいか。

 

『子孫に美田を残すな』とはよく知られた言葉だが、僅かな財産を何としてでも子に残してやり、少しでも楽をさせてやりたいと願う親心は決して責められるものではないだろう。極、自然の心のありようだと思う。しかし、大切なことは、自然の恵みとして感謝する心と、自分以外のものの為にも有意義に活用する知恵も又、引き継ぐことを忘れてはならないということだろう。

 

願わくば全ての子どもが我が子であるように愛しみ、全ての生きものを同胞として慈しむ広い心を持ちたいものだ。

その為にも、この世にあるものの一切が天からの授かりものであり、いずれは返さなければならない借り物だということを肝に銘ずることが必要だろう

 

六、人間らしさとは

 

 この世に在るものは全て意味があり、在るがままに存在することを許されるとしても、厄介なことには、人間は命を長らえる為に他を犠牲にしたり、消費しなければかた時も生きてはいけない。それが又人間の本性であり、そのような生き方を含めて在るがままに生きることを許されていると考えるべきかもしれない。

 要はそのことを認識し、生かされていると感じているかどうかということだろう。

 

自分が自分の力だけで生きているのではない。目に見えない摂理が働き、その中に自分が在るということに気付くことが素直に、自然体で生きることに繋がり、平和で安らぎの有る暮らしをもたらすのではないだろうか。

 

 もっとも、そんなことに無頓着であっても生きていくことに特段の差し障りは無いかもしれない。結局は生きることを自分がどう考えるかということであって、人それぞれの心の持ちようなのだろう。しかし、人間が他の生きものと異なり物事を深く考えるという本性をもつのであれば、人間であることを何とかして実感したいと考えるのではないだろうか。

 他とは違うことに存在意義を求めるのは人間のもつ本性のような特質なのではないだろうか。

 

 そもそも『人間らしさ』とは一体なんなのだろうか?

 

人間が人間であることとは、どういうことを指すのだろうか。本当に人間は他の生きものと違うのだろうか。考えてみれば他の生きものは涙を流したり、笑ったりしないようだ。

 

本当の所はどうか分からないが、たとえば犬は、悲しそうな顔をしたり、嬉しそうな態度を見せたりする。他の生きものにも、程度の差こそあれ感情のようなものがあるのだろうか。

少なくとも人間は、深い悲しみや喜びを感じた時、心の底からこみ上げてくる感動を抑えることができずに、涙を流したりする。殆どの人が、心の琴線に触れるような感動に出会った時、体が震えたり、とめどなく涙が溢れ、生きていて良かったと感じるだろう。

そういった心の働きは、果たして人間だけのものだろうか?深い感動に包まれ、生きていて良かったと幸せを噛み締めるのは、人間だけの特権なのだろうが、犬や猫には自分が幸せだとか不幸だとか思うことは無いのだろうか。好みの餌を与えた時の喜びようには、唯単に、体に刷り込まれた本能的な反応以外の感情もあるのだろうか。

 

勿論、人間も、食欲などの生理的な欲求を満足させられた時、生きていて良かったと思い、幸せだと感じるだろうが、人間の場合は、もっと違った心の満足を得た時に、精神的に満たされた時、正に、心が動かされた時、感動に包まれ、より深い幸せを感じることができるのではないだろうか。

ひょっとすると、この精神的な感動を得ることができるのは、人間の人間だけの特質なのかもしれない。心を満たしてくれる感動を得ようと努力するのは人間の特性なのかもしれない。

精神的な満足を求めるのは、他の生きものには見られない特徴なのではないだろうか。生理的、本能的欲求を、より高いレベルの欲求として追い求めることが人間らしさであり、他の生きものとの大きな違いなのではないだろうか。

 

ただ生き長らえるだけでなく、生命の尊さを知り、たゆまず成長発展し、自らの能力を何らかの形で役に立てたいと願い努力するのが、人間なのではないだろうか。

 

七、本質的価値

 

  人間が人間らしく生きるとは、人間の体の中に秘めた本質的な価値観にしたがって、素直に生きることではないだろうか?

 

人間が全てを脱ぎ捨てた後にも残る、どんなに否定しても否定しきれない基本的欲求に繋がるもので、それは又、生れた時から体の深奥に内包されているものでもあり、誰かに教え込まれたり学習して身につけたものではない。

従ってどんな人にも内在しており、覆い隠すことはできても、消し去ることはできないものと言える。残念ながら、人によっては、厚く堅い殻の中に閉じ込められている為、本人が気付かなかったり、眠ったままになっている場合がある。本人が気付かなくても無意識に、まるで本能的に本質的価値観に基づく欲求が行動として現れるが、本人が意識していない為、あたかも別の価値観が支配しているように見えるかもしれない。

 

例えば、立身出世したいという欲求にしても、その基盤となる所は自分を認めてもらいたいとか、持てる能力を活かして役に立ちたいという本質的欲求が先鋭化したものであって、他を押しのけて傷つけてでも出世したいという利己的な態度が強かったとしても、それは本質的価値観を持っていないのではなく、心が曇り、価値観が歪められているということなのだ。

お金がすべてだ。他に信じられるものなど無い。この世は全て金次第。と言う拝金主義者にしても、自立、自尊で他に頼りたくないという基本的欲求が形を変えて、幼児体験や他から刷り込まれた価値観が本来の基本的価値観をベールのように覆い隠しているということだろう。

本人がそのことに気がついていないだけで、体の深奥には人間としての本質的価値観を秘めている筈である。

 

本質的価値観が眠ったままの状態で生きている人達にとっては、幸せも人間らしさも色眼鏡をつけたり、歪んだレンズの眼鏡をかけて探している訳だから、本物が見つけられる筈が無い。

自分達が幸せだと思っているものも、人間らしさも、賢い生き方も本物とは程遠いものに違いない。どんなに立身出世をしても、どんなに資産を増やし、何でも手に入る生活をしても、いつも何かにおびえ満たされない空虚が胸の内に棲みつき、心安らかな幸せに浸ることなどできないに違いない。

 

自分の能力を活かして世の中の役に立つ為に他の人から敬われる地位に就き、手にした財力をその本質的価値観に基づいて活かすことができれば、心安らかな充実感が全身を包むに違いない。同じ行動をとっても、その基盤とする想いがその人を幸せにするか、満たされないものにするかが大きく違ってくると言うことだと思う。

 

では一体、本質的価値とは如何なるものなのだろうか?

 

人間も又、生きものであることは既に述べた通りであり、生命の長い歴史を体内に秘めているという説も充分納得できるものといえそうである。当然のことながら、人間には自らの生命を長らえようとする本能的、生理的欲求が内在しており、無意識に行動を大きく左右していることは否定できないだろう。

ギリギリの状況下では、本能的、生理的欲求が行動を決定する上で優先されるのは避けられないだろうが、人が人としての尊厳を保って生きるということは、ギリギリの状況下から脱し、知恵あるものとして精神的な豊かさを持って生きるということである。その為に心にゆとりの持てる平和で安らぎのある社会を実現することが求められることになる。

 

ここに言う本質的価値というのは、人間が人間として生きたいと願う時、即ち、ギリギリの状況下を脱し、本能的、生理的欲求がある程度充足された後に、体の奥底から湧き上がって来る心の叫びというべきものを基盤にしたもので、すべての人に内在している一般的、普遍的な欲求に基づくものといえる。

それは例えば、常に成長し発展し続けたいとか、一人前として認められ、自立したいとか、自分の才能を活かして役に立ちたいとか言った心の叫びであり、争いを無くしてみんな仲良く暮らしたいとか、心穏やかに他に迷惑を掛けずに暮らしたい等の平凡な願いといえるものである。

 

或る異業種交流会に参加して『企業風土を変えるには意識改革が必要だと知って、オフサイトミーティングをやってみたが、愚痴のこぼし合いになり、なかなか意識改革にならない。これから活動をどう進めれば良いのか悩んでいる。』という訴えを聞いた。

 

その席で筆者は『何かを変えようとする時、今現在の姿と変えた後の好ましい姿をイメージすることが大切だ。往々にして私達は今現在の改革しようとする自分の意識がどんなものか解っていない場合が多い。

それは自分のものだと思っていた価値観が、実は他から刷り込まれた、外部から与えられたもので、本当の自分のものになっていないからではないだろうか。

やはり、意識を変えようとするのなら、現状の自分を直視し、受け止めること、その上で今度は、自分をとことん内観し、心の叫びに耳を傾けてはどうか?

そうすれば、きっと自分達が本当にしたいことが見えてくると思う。

 

次回のミーティングではそんなことをみんなでディスカッションすることをお勧めしたい。もしも、自分達の現状の意識が明確にならなかったとしても、少なくとも変革後の好ましい意識の状態についてはみんなで意見を出し合い考えられると思う。

 

私が言うべきではないかもしれないが、私自身、自分の職場の仲間が好ましい意識の状態にあるというのは、職場の仲間が活き活きと胸を張って仕事に取り組んでいる状態だと思う。

それは人から与えられた仕事を黙々と処理しているのではなく、自分の考えで、自分の意志で自ら行動している状態、即ち、自分が意識の主体となっていることだと思う。

 

残念ながら、まだ、私の職場もそうはなっていないので、どうすればそうなれるかを学習する為に参加した。』と話した訳だが、実際、自分が主体となって生きることが今日の管理社会では如何に困難なことかを筆者自身、痛感している訳である。

 

その殻を破るきっかけは何なのか、意を決して行動を起こすエネルギーはどこから湧いてくるのか、本質的な価値観を揺り動かす力は一体、何なのだろうか?

  

(続く)