何のために? 生きること、働くこと

会社の向こうに何を見る?(私の願い)

※この作品は平成十一年三月(筆者が五十代半ば)に一旦書き終えた原案を一部加筆修正したものである。従って、時代背景や社会環境などが異なり、一般企業では六十歳定年で年金受給開始も六十歳であり、士郎は定年まで余すところ数年のサラリーマンとしては円熟期にあった。

 

第三章  改めて、生きるとは

 

一、生きていること

 

  前章で、筆者がたまたま参加の機会を得た国際フォーラム聴講記を長々とご紹介したのは、現代に芽生え息づいている思潮の一端を、事実として示しておきたいと思ったからである。

 

  筆者、即ち私は一介の平凡なサラリーマンに過ぎない。科学者でもなければ哲学者でもない極、普通のサラリーマンが学究の徒のように『生きること・働くこと』の意義を探求し始めたのは一体、何がきっかけだったのだろうか?

今となってはどうでも良いことかもしれないが、何の為に生きているのか、人は何を基準に自分の行動を決するのか?

 

厭なことが多い世の中で、何故、苦しさや辛さに耐えて何かをしようとするのか?

 

地位や名誉の為か、それともお金の為か?何か欲しいもの、それを手に入れる為なのか?一体、人は何に衝き動かされて意を決し、行動を起こすのだろうか?

苦労せずとも平穏な生活が保証されたら、人は怠惰になり、働かなくなるのだろうか?

次から次へと疑問は広がって来るが、確かな答えは見つからない。

しかしどうやら、自分が行動する基準はお金や目先の褒美だけではないようだ。何か自分の深奥に潜む意志が働いているように思えてならない。

 

  多分それこそが価値観というものなのだろう。自分がそうだからといって、他の人がそうだとは限らないが、人が行動の意を決するのは、その人の持っている『観』ではないだろうか?

 何に価値を認めるか、どんなことに価値が有ると考えるか?その考え方の基盤となるのが価値観というもので、意識するとしないに拘わらず価値観が行動を決定するのではないだろうか?

もし、そうだとすれば善い行ないや悪い行ないというものは、善い価値観や悪い価値観によって惹き起こされる訳であるから、自分の深奥に在る価値観を善い価値観、正しいものに磨けば良いということになるが、そもそも価値観とは、どのようにして身についたものだろうか?

それよりも何よりも、価値観を持たない人はいないのだろうか?すべての人が価値観を持っているのだろうか。

 

  生きるということはもっと単純なことなのではないだろうか。

 

常日頃、生きるということを意識しなくても、多くの人は現実に生きており、価値観だの人生だのと七面倒臭いことを考えたくもないし、そんなものは全く意識の外にしか無いという人も結構いるのではないだろうか。

一体そういう人達の行動はどんなメカニズムで決定されるのだろうか?

 

というよりも、価値観等、無くても生きていけるのではないだろうか。是非善悪など、いちいち考えて行動しているとは限らないではないか。考えなければ生きられない訳ではあるまい。肩肘張って背伸びをする必要もあるまい。

生きているということはもっと自然なことではないだろうか。素直に生を全うすることが重要なことであって、何かをしなければならないと考えるから生きることが難しくなるのかもしれないではないか。

 

二、生命の流れ

 

  人間は生身の体を引きずっている。その身体の中には生命誕生の昔からの情報を内包していると生命科学者は説く。人間が生まれ出るまでに母親の胎内で生命の歴史、進化の過程をすべて辿ってから、人間となって誕生するという。

 人間の細胞一つ一つにその遺伝的情報がぎっしりと詰まっており、その人の形態だけでなく思考や行動に到るまで、その影響を受けるということらしい。

 

成る程、親子を比較したり、我が子をしげしげと観察してみると思い当たる節の何と多いことか。時に我が子の行動や性格に自分の欠点や短所が引き継がれていることを発見し、愕然とした経験を持つ人は少なくないのではないだろうか。

  確かに我々の身体の中には、自分が生れる前から既に刷り込まれセットされているものが在るようだ。しかし、それが全てではないことも又、確かではないだろうか?

何故なら全てが事前にインプットされた情報に支配されるとしたら、進化など起こり得ないではないか。

 

  勿論、突然変異というプログラムミスやトラブルという形で変異種が新たに誕生することは有っただろうが、多くの進化は、生きている過程で学習したり、無意識の内に暗示や訓練で刷り込まれたりした部分が新たに加わり、遺伝的情報として蓄積されていった結果ではないだろうか。

  いつの時代にも生命は生き残る為にあらゆる努力をするという。環境が変化すれば、その変化に適応する為に自らを変えるということだ。時に激しくも急激な環境変化の為に絶滅寸前にまで追い込まれることがあったが、そんな時でも全ての生命が絶滅するのではなく、巧妙な少数の種が形を変えてでも生き残ってきた歴史がある。

 

それは正に、生きることへの執念とでもいうべきか、個体は次々に倒れて朽ち果てても、生命を繋ぐ強い意志が脈々と生身の体を支配するように生き長らえていくようでもある。

今日、人間の体は遺伝子情報の伝達手段(乗り物:ヴィークル)とたとえる人もいる位だ。しかし、やはり生命の流れは過去を引きずりながら、次々と出現する新たな変化に巧妙に適応し、学習し、変化して、進化成長していくといえるようだ。

 

そうでなければ、人生に何の面白味もなくなってしまうではないか。

 

  『蛙の子は蛙』かもしれないが、『鳶が鷹を生む』ことはあり得ないことではないと思いたい。だからこそ生命の歴史はこんなにも多様な地球生命体を現出させたのではないか。

 長い長い歳月が変節、分岐を繰り返し、それぞれの辿った道が異なり、進化の速度が違った為に益々多様化した結果が今日の姿なのかもしれない。生命誕生の頃を思えば殆ど差の無い小さな単細胞だったかもしれない生命が、今日、人間として全てを支配しているように思い上がるのは厳に慎まなければならないのかもしれない。

 

いわんや人間同士、同じ人類として優劣をつけたり、他をないがしろにしたりすべきでないことは今更いうべきことでもないだろうに、何と物分かりの悪い自己中心主義者の多いことか。

一体これはどうしたことか?

 

『弱肉強食』という言葉があるが、人間以外の生きものは決して弱肉強食ではないという。確かに、命を長らえる為に他を倒し食することはあるが、それは弱肉強食という類のものではなくて、食物連鎖という生命のメカニズムとして組みあがった自然な形としか言いようがないものだという。それぞれが分をわきまえ、必要以上の殺戮や、敵対心から他を絶滅に追い込もうとするような類ではないということだ。

 

全ての生きものは、その生命の流れを永続させる為に正に種の保存に向けて涙ぐましい迄の努力をしているそうだ。他の餌食となって数が減っても、そのことを見越した数の産卵や子を世に送り出したり、時に体を武器になるように変化させたり、色や形態を変えて外的に発見され難くしたり、より強い個体や生物に身を寄せ、寄生してでも子孫の繁栄を目論むという営みは何か見えざる手によって支配され促されているとしか思えない巧妙さであり、生命の不思議と言うべきものだろう。

 

この世に生命が誕生した時、果たして、これ程までに多彩な生きものがいただろうか?答えは否というべきだろう。

その後の長い長い年月や風雪が、種と種の争いが、生き残るものと滅びるものを生み出し、栄枯盛衰のような歴史の末に今日の姿にたどりついたのだろうが、だからといって、人間がすばらしく他の生きものが劣っていると考えるのは思い上がりかもしれない。

 

三、善と悪と

 

智慧を手に入れ、道具を使い、人工の世界を次々と現出させた力は他の生きものと比べると、比べようの無い程、他を圧倒するに違いないが、それは果たして善なのか悪なのか?

大自然に育まれて、自然の恵みを受けながら生命を長らえ、次の世代に引き継ぐことに意を尽くし、他に必要以上の戦いを挑まず、ささやかに生命の営みを続けてきたものがいれば、その営みの方が遥かに優れた善ではないのか?

 

我々がこれまで礼賛してきた科学の力は、なるほど、自然からは得られないような進歩や発展的な変化をもたらしたかもしれない。人間の寿命が医学や科学の進歩で格段に延びたと言う事実を挙げて、その素晴らしさを人間の智慧としてたたえ、更なる発展を唱えるのが間違いとはいえないかもしれないが、その為に自然を破壊し、地球の生命を危機に近付けることになったら、やはり、進化発展が善とは言えなくなってくるのではないだろうか?

 

もし、燃え尽きる蝋燭があったら、華々しく明るく光りを放つことが善なのか、細々と少しでも長く暗闇に明かりを点すことが善なのか疑わしいではないかと思う。

本当はどちらでも良いことなのかもしれないが、いずれにしろ善だとか悪だとかを規定しているのは人間であって、人それぞれの価値観ではないだろうか?

 

我々はより善く生きる為に、常に生き方を選択していかなければならないのだろう。それは人間が考える智慧を持った時から運命付けられた特質なのかもしれない。

といっても、そんなことを考えない人や一向に頓着しない人、考える機能が欠落したまま世に出てきた人もいる。『人は考える葦である。』とは余りにも有名な言葉だが、考えない人は愚かで遅れているというべきではない筈だ。

考えずに自然体に生きものとして素直に生きることの方が遥かに幸いで、善なのかもしれないではないか?

 

考える人と考えない人、人間と他の生きもの、善人と悪人、凡人と天才、奇人変人普通人、薬と毒、要るものと要らないもの?果たしてこの世の中に要るものと要らないものなんて区別ができるのだろうか?

自分にとって、或いは人類にとって都合の良いものと都合の悪いものはあるに違いないが、それは判断する主体の価値観や都合であって、決して絶対的、普遍的なものとは言えないだろう。絶対的な価値観から見れば、この世にあるものは全て必要なものであって不要なものなど何処にも無いのかもしれない。

 

宗教の世界でも悪人がいて、悪魔も天使も意味のある存在であって、もし、善人しかいなくなったらきっと困るに違いないと思う。

乱暴な言い方かもしれないが、悪人がいて善の何たるかが分かるのであって、人でなしがいるから人の道(倫理)が見えると言えるのかもしれない。

 

人間が弱い存在で易きにながれたり、怠けたり、嘘をついたり、妬んだり、色々な誘惑に負けて悪事を働く罪深い生きものであることを、本性として内包していることをキリストや釈迦や多くの宗教家、先哲が見抜いて、その人間の特質の上に立って人が賢く生きる道を説いたのではないだろうか?

全ての罪をキリストが背負い、人は父と子と精霊の下に懺悔すれば全てが許されるという発想は正に、人間の編み出した智慧なのかもしれない。全ての罪は自分がその罪に気づき再びその罪を犯さないと懺悔し、新たな努力を始めた時に許されるという贖罪の思想は、この混沌とした誘惑の多い現世を、弱い人間が生き抜く生活の智慧なのかもしれない。

 

そう言えば『善人なおもて往生す。いわんや悪人をや』という思想も、どんな人間も自らの非に気づき、阿弥陀如来のお力におすがりし、一心にお願いすれば、必ず極楽浄土に導かれると言う教えもまた、乱れた世の中に生きる勇気を与える智慧ではなかっただろうか?

 

もとより、宗教家でもない筆者如きが、軽はずみな推測でいうべきことではないかもしれないが、善だとか悪だとか色をつけ、区別しようとしてきたのは、全て人間の為せる業というべきものではないか。

すべてを創り出した創造主からいえば、善も悪も無い全てが在ることを許されているものなのかもしれない。

 

四、生きることの意義

 

全ての生きものは、自ら意識するとしないに関わらず、厳しい自然の中で懸命に生きる努力を続けている。巧妙に生きること、賢く生きること、より善く生きること、その在り方がどうあれ、夫々が見事な迄に教えられ訓練されたかの如き生き方を、生まれつき身に付けているようにも見える。学習し、生き方を少しずつ変えるのは、決して人間だけの専売特許ではないそうだ。

他の生きものを生物学や遺伝学的に観察すると、その営みは目を見晴らされるばかりだ。あのかわいい小動物のコアラにしても、木の上に棲息し、体力を消耗せずに生きていく智慧を身に付けたのは、ずっと昔の氷河期のことだという。

地球上の生物が危機に瀕し、食料を求めて殺し合い、飢えや寒さを凌ぐ為の懸命な努力をした頃に、弱い生きものが生き長らえる術として、誰も食べようとしなかった繊維の多い、ユーカリの葉を餌にし、僅かなエネルギー摂取で生命を維持する為に、樹上生活で外敵から身を守るような生活様式に変えて行ったということだそうだ。

 

恐竜のように図体が大きく人一倍の食料が必要で、環境変化に適応する様な形に自らを変化させられなかった生き物は滅びて行かざるを得なかったのかもしれないが、陸から海や水の中に生活の場を移し、生き長らえたものも多かったのではないだろうか。

そういう歴史を見ると、ただ単に本能的に、無意識の内に生きているように見えても、常に外界の環境に気を配り、巧妙に変化に適応しながら次の世代に学習効果を受け継ぐ生命システムは見事という他あるまい。

そのような生きものとしての感性『生きもの感覚』を、今日の現代人も又、体の深奥にもっているという生命学者の主張は説得力があり、興味深いと思う。

 

人間が素直に生きることを考えるならば、この生きもの感覚を大切にすれば良いのかもしれない。何故なら生きもの感覚は分をわきまえたものであり、決して必要以上に他を傷つけるような過度に攻撃的なものではなく、むしろ、共生しようとする思いが働くものらしいからである。

失礼な言い方になるかもしれないが、敢えて許して頂くとして、知的障害を持って生まれた子供に健常な子供より遥かに優しさや人間らしさ、素直さや他者への思いやりが見られる場合が多いのではないか?

 

正に人間は智慧が付くほど悪賢くなり、本来持っている人間らしさを失っていくのかもしれない。それでは余りにも淋しく、哀しいではないか。

やはり人間は賢く生きる為に折角の智慧を使うべきだと思う。

 

生きることの意義は、賢く生きる為の智慧の使い所でなければならないのではないだろうか。頭は使いようと言うように、智慧は使い方によって悪事を増幅したり、他者を傷つけたりもする。なまじ、智慧が無ければ分をわきまえて仲良く共生できるかもしれないのに、既に人間は刃物のような智慧を手に入れてしまっている。

刃物は他者を傷つける為に在るのではないだろう。その起こりは生活の道具だったのか身を守る為の闘いの牙だったのか、いずれであろうと今日、刃物は他者を傷つける為に用いるべきものではないだろう。

 

智慧はより善く、賢く生きる為に使わねばならない。より善く賢く生きるとはどういうことなのか?そこに生きることの意義を見出すことができるのではないだろうか?

 

本来、生きることに意義など見出す必要はないのかもしれないが、生きることに意義を求め、智慧を使って生きようとすることこそが人間の本能的な働きなのかもしれない。

そのような智慧を使いたいという欲求が人間の本質的欲求のひとつとして体に刷り込まれているように思えてならない。

時に、その事に気づかず、その本能的欲求が眠ったままであったり、他の欲求が強すぎて一向に考えることへ努力が向かない人も見られるようだが、人は自らの智慧や能力を使い何かを創り出したり他に影響を与えることが喜びに繋がっているように思えてならない。

自らの能力を眠らせておくことはとてもできず、いつかマグマのように外へ噴出せずにはいられなくなるように思う。

 

そのエネルギーの吐き出し口を間違えない様に生きることの意義を考え確かなものとしておくことこそ、賢く生きる為の智慧なのではないか。

    

(続く)