ツイッターで思うままに何となく書いたものが長くなったので、SNS、ブログでは日記としてそのまままとめたもの。

何となく手元のアガサ・クリスティー傑作集の各務三郎さんの解説を読み返して「物語る力強さがいかなるものか理解しようとはしない。描かれる事象にただ初めから目をつぶり退屈しようとしている。型通りに人間が動き、対話することは読者を毒するものと信じこんでいる」が妙に刺さった

同じ解説から…ワトソン役は決してほろぼしてはならないものである。ジュリアン・シモンズなど「あきれるほどおろかなワトソン役」と軽蔑しているが、それだからこそ読者は安心してポワロの冒険譚にひたることができたのである(略)物語とくに冒険譚に記述者がいなければ、英雄は自己宣伝をするはめにおちいってしまう。それでなくとも偉大なる人物には伝記作家がつきものなのである」は倉橋由美子さんが著作あとがきで最近の小説はつまらないという説でチェスタトン氏の引用「昔ながらのおとぎ話では、主人公はいつでも尋常一様な少年でびっくりさせるのは彼の出会う異常な事件のほうである。……ところが現代の心理小説では、逆に主人公のほうが異様で異常なのだ。正常の中心が欠けているから正常が正常でなくなって、異常が正常になってしまっている。だから……当然その小説は平坦きわまりないものになっている。……現代の真面目なリアリズム小説が描くのは、そもそも×ちがいである男が、味気ない世の中でいったい何をするかということである」(一部伏せ字)そこから展開する倉橋由美子さんの童話論も印象的で以前も書いたように中学生時代にたまたま読んで妙に印象的で、未だに自分が創作するときに意識している部分で、それを思い出した。

近年の作品、ライトノベルや漫画にかぎらずだけど、主人公がある意味異常という設定は珍しくなくなって自分もそういった物語が好きだけど、自分が書くときは昔ながらの主人公は普通…最近は小鷹信光さんのロス・マクドナルド論が印象的だったことから無色透明、存在感がなくて語り手、観察者という形が多くなっていて、このあたり自分でも執着しているから変えないといけないなと思う部分でもある。わりと真面目に年二回の二次創作(生誕記念贋作)は普通の物語を書く機会で調整している部分がある…自分の書き方がわからなくなっている部分がある(苦笑)