今年もやってきた俳句甲子園。だが僕はそれを見に松山まで行ってきたわけではなく、Eテレの番組を見、ネットで結果を知っただけである。それを承知いただいたうえで以下の感想を書かせていただこうと思う。
批判的なことも書いてしまうかも知れないが、できるだけ建設的な意見を述べたく思っています。
番組では、出場校のどの句が佳かったかには焦点を定めず、彼らの行なったディベートを集中的に捉えていた。観客としての僕からすれば、そんなことはどうだっていいのだ。要はこの大会で、どんな句が投じられ、その句に対して僕がどう感じたかを論じたいだけなのだ。名門だから頭が佳くてディベートが優れているとか、弱小チームだけど健闘したねとか、言われるけれど、そんなことには何の興味も覚えない。競争じゃないのだ。綺麗な花に出会いたくて花屋を覗くように、投じられた俳句の中から佳句を見つけ出したいのだ。わかりませんか? 花屋で花談義をして、薔薇と牡丹を比べてどちらが優れているなんて決められますか。薔薇より桜の方が綺麗だなんて言えますか? 薔薇も牡丹も桜も花として誰もがうつくしい、つまり花としてのある水準に達しているか、違うかの基準しかないのです。俳句もそうなのです。僕の本音は「佳い句に出会いたい」「より多くの佳い句を知って、自分の句作の糧にもしたいし、佳い句に出会うことを通じて感動を味わいたい」それだけなのだ。つまりは角川の〈俳句〉という雑誌や〈俳壇〉などに毎月載っている著名な俳人の秀句に出会うときと、スタンスはまったく異ならず、高校生の新鮮な俳句を多く知りたい。その期待と願望とで僕の胸ははちきれんばかりなのだ。はっきり言ってどこの高校とか、誰が詠んだのかなんてどうでもいい。すべての作品が詠み人知らずでいいからこの感想を書きたいと思っているのです。
まず、番組冒頭に紹介された句。
ふゆのほしやまのむこうにおちている 帯谷到子
帯谷さんが五歳の時に初めて詠んだ句。まず目が行くのは、〈おちている〉。〈おちてゆく〉ではないのだ。〈おちてゆく〉では、実感に乏しいと思ったのだろう。見ていた星は空をめぐってもう山の向こうへ落ちている。その実感が尊いのだ。この子は星が落ちてゆくところをずっと見守っていたのだ。星の闇の中で、手袋をして、マフラーを身につけたり着ぶくれて、いつまでも、いつまでも見送っていたのだろう。美しい句である。
延岡学園尚学館
天牛の歩き尽くして飛びにけり 帯谷到子
この句。写生句だが、少し悩ましい。〈歩き尽くして飛びにけり〉は若干平凡に感じられる。代替案が思い浮かばないのがもどかしいが、こんな程度で「写生できた」と満足する詠み手の神経が分からない。もう少しふさわしい詠み方はなかったか。夏井いつき先生おっしゃるところの〈凡人俳句〉の典型的一例だ。
こういう〈歩き尽くして飛びにけり〉という措辞は、天道虫とか、他の、翅をもった甲虫類全般にありがちで、手垢がついている。かく言う僕自身もこれに似たような発想の句は、修業時代に嫌になるほど詠んでいる(修業時代というと、今は偉くなったのかとツッコミを入れてくる方もおられると思うが、要は〈修業するのを止めてしまった〉だけなのだ。それでも莫迦じゃないから少しは学んで、こういう〈ありがち俳句〉に懲りて少しは詠まなくなったというだけなのです)。誰でも思いつく表現だ。類想のある句は、どんなにいい表現でも誰も採ってはくれない。発想がありきたりだからだ。もっと違う発見をすべき。
僕だったらこれ以上佳くならないのなら、あっさり諦め次の句を詠む。俳句は多作多捨が基本。最低百句でも二百句でも詠んで(これは建前だ。俳句に打ち込む気があるなら、千句、二千句、もっと欲張るなら一万句ぐらい詠んでほしい。一日百句をノルマにすれば一万句だって百日で到達する。井原西鶴は俳句を一日に23500句詠んだという記録がある。これは無理だとしても、一分の間に一句詠むペースでゆけば、百句ぐらい二時間とかからずに詠める。一日千句詠むことだって不可能じゃない。土日が休みだったら挑戦してほしい。要は五七五のリズムや、俳句独特の韻律に馴れてしまえばどうということもない。簡単なことだ)、その中から佳いものだけを選び(俳句初歩のひとは〈句会における選句〉を軽んずるが、〈句作における選句眼〉の大切さに気づいていない人が多い。句会、たとえば実際に集合場所を決めて一堂に集う句会でも、ネットで切磋琢磨するネット句会でも同じだが、他人の俳句を読み、よく味わって佳い句かそうでないかを判断する。選句眼を鍛えること。佳いか佳くないかの判断もできないようでは、上達の見込みはないことを知るべきだ。つまり「人の振り見て我が振り直せ」なのだ。それがわからないようでは自分の句の良し悪しも永久にわからないだろう)、そこから推敲にかかるのだ。表現的によくない句をいくら推敲しても佳い句にはならない。句会で俳句の先生が句を添削してくれるのは、直せば佳い句になるからで、直してもよくない句は添削の対象にもならない。佳い句だから直してもらえるのだ。
ひと息に青田広がりゆく離陸 帯谷到子
新鮮な感覚の一句。〈ひと息に〉はきっと「あっという間に」と言いたかったのだろう。一呼吸するかしないかのうちに、離陸した機体はみるみる空へ舞い上がり、あっという間に視界は広がり、一面の青田が見えたのだ。見渡す限りの緑の絨毯が眼下に広がっている。作者の感動が手に取るように伝わってくる。番組内で他校の選手が「着陸の方が実感がこもるのでは?」などと言っていたが、着陸では世界が狭まってしまって、遠くまで広がる青田を見晴るかすことができない。そんなこともわからないのか。その選手の想像力を疑いたくなる。この句はできている。直すところがあるとは思えない。
角に触れ天牛の死を察したる 福島彩乃
天牛は鳴く。「ぎい、ぎい」と、軋むような音をたてて鳴くのだ。だが掲句の天牛はすでに事切れている。甲虫だから、天牛も死ぬと関節のところから、中の肉があらわに見えてしまう。天牛の死はそれでわかる。この句。残念なのは予定調和的な面・作為が見えてしまっている。手に持てば気の荒い天牛だから生きていればすぐさま指を噛むだろう。それを〈察したる〉とは。〈察したる〉が見え見えで空々しいのだ。どうすればいいのだろう。
名古屋高校
湖か池かを見つつ心太 福田匠翔
これは福田さんの原句。〈湖か池か〉という記述が曖昧だという指摘があった。これも、地図を見なくとも、方向音痴でもない限り、目の前にある広々と水を湛えた水たまりが何か、わかりそうなものだ。もったいぶりすぎなのだ。〈見つつ〉も〈心太〉にかかって、説明的。詩に説明は要らない。それで、福田さんは、
みづうみに島ぽつかりと心太 福田匠翔
と詠んだ。
この句。動詞がない。だが「ぽつかり」は副詞で、動詞を形容する言葉だ。つまりこの句は動詞を省いている。省いているのは〈浮かぶ〉とか〈見ゆ〉という動詞。余計な言葉がないことで、この句はすっきりとした印象を読者に与えている。
〈湖〉は〈うみ〉とも読めるから、こう詠むこともできる。
ぽつかりと島浮かぶ湖心太
ぽつかりと島見ゆる湖心太
福田さんの掲句は中七に切れがある。〈ぽつかりと〉の言葉で意味が切れるのだ。ただ、詠われた内容が季語と響きあっているかと言えば、そこには疑問点が残る。季語が動きそうなのだ。もっとふさわしい季語があったはず。ただ、俳句甲子園では兼題(「青田」「心太」「天牛」「葉桜」「新涼」「鶺鴒」「蔦」「百」)以外は句に遣えないからこの季語にしたのだろうが、そのあたり、残念な言葉選びだったと言えなくもない。ただ、季語を「新涼」に変えるならこんな句も詠める。
(新涼の湖にぽつかり浮かぶ島)
(新涼の島ぽつかりと浮かぶ湖)
( )でくくった二句は、すべて言ってしまって、身も蓋もない。
やはり「浮かぶ」を省きたい。
新涼の島湖にぽつかりと
ぽつかりと新涼の島湖のうへ
「ぽつかりと」を外すなら、こうだ。
新涼の島まつさをな湖のうへ
「うへ」は説明的で余計ならどうするか。
新涼の島まつさをな湖の風
ここも〈湖の〉の〈の〉が気になる。〈まつさを〉が〈風〉を形容している。〈湖に〉もありそうだし、〈湖を〉も考慮に入れるべきだと思う。
こんな風に書いていると添削をしているつもりが、どんどん凡人俳句にはまってゆくのを感ずる。いけないいけない。
こうやって無数の句を考え、思いえがいてどれがいちばんいいか、思い悩む。そんな袋小路に嵌まるのも俳句の愉しみのひとつであり、俳句のむつかしさでもあるように思う。
心太突けばひとすぢ引つ掛かり 田籠 瑛
これも写生句だ。心太を実際に突いてみなければこんな句はできない。気になるところは〈ひとすぢ〉。歯に物の挟まったような、もどかしい表現だ。他に何かいい表現はなかったのだろうか。
天突きにくづてらてらとこころぶと
気球より手を振りかへす青田かな 山本理貴
わかりやすく明快な句だ。〈手を振りかへす〉ということは、青田にいる農民(或いはそうではないこどもか大人かも知れない)が、気球に手を振っているのだ。気球に乗ったひとはそれに応えている。「振りかへす」がいいのだ。
たとえば掲句が以下のように詠まれ、投じられていたら。
気球より手を振る青田風の中
これでは地上の人が手を振っているかどうかもわからず、掲句のような温かい読後感は生れなかっただろう。
気球に視点を置いたことで、一面の青田の広さが見えてきた。これもいわゆる〈できている句〉でどこも直す必要がない。完成されている。
高崎女子
日没の公衆電話に天牛 秋松咲千子
若干破調の句だが、気になるのはやっぱり格助詞〈に〉だ。破調で、「カッコいい句」を詠んだ気でいるのかも知れないが、報告調で余韻もへったくれもない。俳句の先生から「報告調はいけない」と教わらなかったのだろうか。それとリズムの悪さが気になる。ただ、「日没(ニチボツ)」と「公衆電話(コウシュウデンワ)」、「天牛(テンギュウ)」と音読みで統一しているところは、別に韻を踏んでいるわけではないが、響きが良くなっている。
天牛の公衆電話へも落暉
天牛を上五へもってくるのが何故いけないのか、このひとに訊いてみたい。
あと、上五を〈や〉で切る手もありかな、とは思う。天牛がどこにいるのかわからなくなるけれど。
天牛や公衆電話へも落暉
こういう句もあった。
聖マリア女学院
青田風オルガン工房より生まれ 水田 凛
青田風は青田を吹く風だが、青田から生まれた風とは限らない。掲句はこの〈盲点〉を突いた句だ。オルガン工房のすぐそばに青田があるのだろう。オルガンの温かい音色と青田風の爽やかな印象が嚙みあって、この句は清々しい読後感のある句になった。意外性もあるし、中八なのが玉に瑕だが、〈オルガン〉の〈ン〉の音と〈工房〉の〈う〉の音が、字余りをやや緩和させているのが救いだ。
これも、
オルガンの工房青田風の中
などとやってしまったら、定型にはなれるが、読後感の曖昧な凡人俳句になってしまう。理屈を超えた詠みぶりが掲句を生かしているのではないだろうか。
ここで番組は終わったが、あとで検索してみたら、今年の大会の全貌が事細かに出ているのを見つけた。感想を書かせてもらおうと思う。以下の句は出来も佳く、みな句としてできている。
海城高校
戦国の鍛冶屋の里の青田かな 大山圭一朗
戦国時代に鍛冶屋を生業にしていた里の青田なのだ。あの時代にも現代のような青田があった。黒澤明の映画「七人の侍」に描かれたが、あの時代は武士よりも農民の方が強く、逞しかったのだ。武田だ上杉だって威張っていたって、その主力の二万、三万という軍勢はみな百姓で、彼らが田畑を耕すのをおっかあと息子ら・娘らに任せ、中には大きくなった上の息子らを率いたりもしただろう、ともにひとっ走りして足軽・雑兵として戦ったのだ。中には刀鍛冶や鉄砲鍛冶もいて雑賀孫市のような豪傑もいたのだ。そういう豪傑たちは、畑を荒らす鹿や猪をとっ捕まえて〈薬食い〉と称して煮たり焼いたりして食ったり、金額的にバカ高かった〈種子島〉を自分たち用に真似して増産できるような、優れた鍛冶屋も多かったのだ。背丈はみな小さかったろうが筋骨逞しい、そんな勇猛な百姓が日本を支えていた時代があった。まるで司馬遼太郎の世界だがこんなことを想像していると収拾がつかなくなるからこの辺でやめておく。
句の感想を言っていなかった。格助詞〈の〉を繰り返し遣うことによって、リズムの良さを生んでいる。戦国時代には鍛冶屋があった里。そこにある青田を眺めて、作者は戦国の世を思い浮かべたのだ。芭蕉の名句「夏草や兵どもが夢の跡」を思い浮かべての詠なのかも知れない、とも思った。
洛南高校
心太日はもう西の端にあり 大谷 凪
〈心太〉は、言うまでもなく夏の季語。〈日はもう西の端〉というのだから、それまで西日が射していたのだ。この句で目が行くのは〈もう〉の一語。作者はきっと西日にうんざりして斜陽から目を離していたのだろう。ちょっと見ないうちに気がつけば日はもう山の向こうへ沈もうとしている。西日は晩夏の季語。暑さに耐えながらほんの気休めに心太をすする作者。もうすぐ日が暮れる。薄暮。入日。京都の夏は暑いと聞く。だからこそ一日の終わりは涼しく過ごしたい。端居して食べるのは氷菓よりも心太の方がふさわしい気がする。
蔦這へる柱に夢のくらさあり 大谷 凪
この柱は何だろう。〈蔦〉は外の季語だから四阿のようなところか。それとも夏館のようなところに蔦が這っているのか。作者はとにかく眠っていたのだ。夢を見ていたのだ。午睡だろう。一炊の夢のように午睡は短くても、内容が極端に奇怪だったり、暗かったりする。前後不覚に寝てしまったのならなおさらだ。醒めると目の前の柱に蔦が這っている。まるで蛇が柱に絡みついてでもいるようだ。そんな想像までこの句は許してしまう。
ひょっとすると〈蔦這へる柱〉も夢の中の情景ではないだろうか。掲句。どこからどこまでがと、現実と夢を括っていない。だから、みんな夢落ちというようなそういう解釈をしてしまうと季感が曖昧になる。俳句はこういう処がむつかしい。
ずっと思っていたが、この大谷凪さん。かなり安定した実力をもっている〈相当詠める〉ひとではないだろうか。実際、このひとはかなりの上手さを感じた。他の選手の方々もそうだが、大谷さんのような方には卒業後も俳句をやめず、ゆくゆくは角川俳句賞や俳壇賞を目指してほしい。この二つの賞は俳句界の芥川賞とも呼ばれる、新進気鋭の俳人の登竜門。彼女ぐらいの実力なら是非目指してほしいと思う。
二百十日猫の毛の付くシャツを振る 前田佑介
〈二百十日〉は秋の季語。厄日とも言われ、昔からこの頃には台風の襲来することが多かった。掲句。猫の毛は一度つくと取れにくく、コロコロなんかで取らないと取れない。振ったぐらいでは決して取れない。二百十日という大風が吹く言い伝えのある季語を冠したことで、「シャツを振る」が季語と響きあっている。詠みかたがいい関係性を保っているなと思い、採らせていただいた。ただ中七。「猫の毛付きし」と過去形にする手は考えなかったのかな、とは思う。いや、考えたと思う。俳句は基本的に言えば「今現在を詠む詩」だ。過去形を現在形に変えるだけで句が劇的に変わる場合も多い。少なくともいま詠じたものを過去形にすることでリアルな質感から遠ざかってしまっては本末転倒なのだ。
済美平成中等教育学校
世の中が私に合はぬ心太 松江祐芽
済美の選手は歴史的仮名遣いで句を表記しているようなので、仮名遣いを直させていただいた。上五中七と季語とのマッチングが圧倒的に佳い。世の中の風潮と自分の感性とが、うまく合わないと感じている人はいま多いのかもしれない。それに似て心太も箸につまむとつるつるして意思をもっているはずもないのに箸さきをすりぬけてゆく。涼しい食べものだが食べていていらいらするような。それを一句のなかに閉じ込めたのだ。ただ、何故中七が〈ぬ〉なのだろう。〈ぬ〉は否定の助動詞〈ず〉の連体形。体言の〈心太〉を形容する言葉となる。完了の助動詞〈ぬ〉ではない。だから切れが生じず、下五と地続きになる。心太が擬人化され、ところてんという食べものが昨今の流行についていけないと嘆いている句になってしまう。どうしても完了の〈ぬ〉をつけたい場合は動詞を〈合ひ〉と連用形にしなければいけない。
世の中が私に合ひぬ心太
「世の中が自分に合ってしまう」という全く正反対の句になる。こんな句を詠みたいのではなかろう。だったら〈ぬ〉ではなく〈ず〉だ。
世の中が私に合はず心太
それと上五の〈が〉の格助詞。〈の〉は試したのだろうか。〈の〉なら一歩引いた言い回しになる。
世の中の私に合はず心太
摑まれて天牛のなほ空を噛む 川口心実
人の手に捕まって、天牛が暴れている。天牛の歯は鋭い。だが肝心の翅の甲を摑まれているので、どうにもならない。噛む力が非常に強く、人間の髪さえ噛み切ってしまうところから〈髪切虫〉と呼ばれるようになったと歳時記にある。その鋭い歯で人間を噛んでやりたいがそれができない。天牛はむなしく空を噛むばかりだ。〈空〉は「そら」ではなく、「くう」と読むのだろう。それでないと天牛の悔しさ・無念さが伝わらない。
灘高校
金尽きて旅終はりけりところてん 岩瀬一誠
この人はもしかすると有り金はたいて青春十八きっぷを買って、あてのない旅に出たのかもしれない。自分探しの旅。若者の特権だ。だが、ふと我に返るともうほとんど金を持っていないことに気づいた。それで最後のお金でところてんを食べたのだ。関西の心太は黒蜜のもあり、甘くておいしいと聞く。その甘さはこの人にどんな思いをさせたのだろう。
興南高校
鷺あゆむ青田の水の暗く澄み 古堅咲那
鷺が青田をのっそりのっそりと歩んでいる。歩く、ではないのだ。歩むのだ。歩くより、歩むの方が表現は繊細だ。その水が暗く澄んでいる。もし鷺が人間のこどものようにがしゃがしゃと歩いたなら田水は濁るだろう。澄んでいることで、鷺の歩みがいかにひっそりしているかがわかる。句、そのものからほとんど〈音らしい音〉が聴こえてこない。ちょぽん、とか、ぴちゃん、とか、いやもっと小さな、気にして耳を澄ませていないと聞きのがしそうなほど繊細な音、そういう幽かな水音しか聴かれないのだ。この句、注意点は、季語が二つある。〈青田〉と〈水澄む〉だ(〈鷺〉も季語っぽいが季語ではない。〈白鷺〉や〈青鷺〉なら夏の季語。この辺り、季語の区分けが紛らわしい)。だが〈水澄む〉は秋で〈青田〉は晩夏の季語。この句の季感は言うまでもなく、夏だ。水は一年中澄んでいるわけではない。〈水澄む〉の季語を生かすには季感は秋でなければならないが、八月になればもう青々とした稲は晩稲でもない限り花が咲いてしまう。だから初秋に青田は存在しない。青田の存在する晩夏〈水澄む〉は主な季語にはならない。〈水の暗く澄み〉という措辞は、田水が〈澄み切って〉いることを証左する言葉には見えない。澄む水になるには泥が沈殿する程度の澄み方では足りず、澄み切らなければならない。季語として機能していないのは読めばわかる。
水沢高校
天牛の孤独に湖の広がりぬ 中澤美賀
分かりにくい句だが、それゆえに読者に想像させる余地を残した面白い句である。天牛の孤独、とある。だが読者には天牛が孤独を感じているとは思われない。それでは擬人法だ。この句。上五の〈の〉で一旦意味がかるく切れる。だとしたら〈孤独〉は何を表している言葉だろう。わからない。心の情景だろうか。作者の目の前に湖が広がっている。ただいたずらに湖が広がっているばかりだ。作者は何を言いたかったのだろう。〈天牛や〉とする手は考えたのだろうか。〈孤独に〉の〈に〉は揺るがないのだろうか。この格助詞〈に〉は「……のうちに」のような意味がある。「孤独のうちに」。こうしてみると、作者が自分の想いを天牛に託して詠んでいるのが分かる。
「天牛も、そして自分も孤独のうちに、目の前にはいたずらに湖が広がってしまった」という鑑賞になる。正しいかどうかわからないが、〈に〉に気持ちを寄せて読んでみるとこうなる。
名古屋高校
天牛やかつぴらいたる達磨の目 三輪修平
天牛は、思えば激しい生きものだ。人が指を差し出したら、あっという間に指先に食いつくだろう。作者はそれに加えて達磨を思う。縁日などで売られる張子の玩具を連想する人も多いだろうが、僕がまず思ったのは禅宗の開祖:達磨の眼だ。それを思わせるほどこの句には迫力がある。〈かつぴらいたる〉がその迫力を表している。〈かっぴらく〉は、広辞苑で調べたが載っていなかった。だが〈かっ〉という言葉が接頭語の役割を果たし、この動詞〈開く〉を強調する語であることは読めばわかる。だが迫力なら、天牛だって負けてはいないだろう。人間だって気をつけねばやられる。激しい生きものなのだ。つまりこの句。天牛と達磨が丁々発止、やりあっていてどちらも光りあっている。
秋涼の魚拓に眼なかりけり 三輪修平
魚拓。魚の拓本。そこにあらわされた堂々たる魚(多くは鯛、それも釣るのがむつかしい高級魚:石鯛や黒鯛かも知れない)の体軀を前にすると、圧倒されるが、作者はこの魚拓に眼がないことに気づき、愕然としたのだ。その気持ちを代弁しているのが〈秋涼〉の季語なのだ。作者は竜の眼を描きいれるように、この魚に睛(ひとみ)を描きたくなったに違いない。
新涼や抜かれたる歯を渡されて 冨田 輝
歯を抜かれたことのある人は知っていると思うが、あれって、麻酔をかけられても、抜くときも抜いた後も、しばらくは痛みが続くのだ。なのに、そんなすったもんだの末に「これが歯です」と歯科医に歯を渡されても、「これをどうしろと?」と言いたくなる。これは乳歯じゃないのだ。屋根や縁の下へ投げても新しい歯が生えてくるわけじゃない。この曖昧な気持ちを表現するのに〈新涼〉の季語はすっとぼけていて清々しくかわしてくる。こういうありのままの表現に俳諧味が隠れている。おもしろい句だ。
新涼や木琴に桴しまふ音 山本昊太朗
繊細な一句。演奏会が終わって、木琴をしまうとき、桴(バチ)も一緒にしまうのだが、その時本人は静かにしまっていたかも知れないが、不意に一瞬、桴が木琴に当たって小さな音を立てたのだ。そのことだけを詠んだ一句だが、これぞ俳句と言える一句だと思う。余計な言葉が一切ない。新涼の季語が生きている。
葉桜や彼ら二人にしておかむ 関谷諒太
満開の桜がみな散って、初々しい若葉の季節になった。〈彼ら〉とは誰を指すのか、ほんとうのところはわからない。わからないからこそおもしろい。おそらく同級生(或いは学年の違う)の彼と彼女だろう。余計な茶々は入れずにそっとしておこうと思ったのだ。こんなことを句に詠うのに、桜の若葉(葉桜)ほどふさわしい季語があるだろうか。
横浜翠嵐高校
鶺鴒のととと飛び立つつもりらし 吉岡心晴
写生句。鶺鴒のことをよく見ていないとこんな句はできない。鶺鴒は確かにこういう動きをする。そして見かけは身軽そうに見えるが、羽ばたきに力強さが足りず、ちょっと重そうに飛ぶ。この句。〈ととと〉というオノマトペに芭蕉が推奨した〈俳諧味〉がよく出ている。俳句は本来ユーモラスなものだ。真面目な顔をしてすっとぼけたことをいうような俳句は間違いなくおもしろい。それとこの句。〈ととと〉というオノマトペがあまりにも印象的で、一度読んでしまうと、目に焼きついてしまって忘れられない。強烈な映像的効果を発揮して、忘れようのない一句になっている。
祭には行かぬ帰郷や心太 池田光希
この句も季語が二つ。〈祭(夏)〉と〈心太(夏)〉。だが、下五に据わった心太が揺るがない(祭には行っていないのだから、祭を季語として中心に据えるには弱いのだ)。この上五。〈祭には〉は何故〈祭へは〉ではないのだろう。僕が思うに、〈には〉は身近な祭、〈へは〉はより距離的に離れた大きな祭のように感ずる。〈に〉は方面的に狭く、〈へ〉は場所を限定するには範囲が広い意味合いがあるからだ。故郷には帰ったが町の祭を観に行くようなことはしない。盆踊りを踊りに行くことも観に行くようなこともないのだろう。我が家がいちばん。疲れるために帰るのではなく、一休みしに帰るのだ。我が家で心太でもすすっているのがいちばんだと思っているのだろう。
山形東高校
親の怒号教師の怒号百合ひらく 東海林あや
〈百合ひらく〉が絶妙。この子は毎日のように親や教師に大声で叱られているのかも知れない。怒号で高校生を従わせようとしても、自分に納得のゆく意見でなければ生徒は決して動かない。百合の蕾は固い。だがいずれ開花する。そんなに怒声をあげなくとも、あの固い百合の蕾が開くように生徒もいずれ理解してくれますよと言いたいのかも知れない。いずれきっとわかる。この句。この句にも何とも言い知れない俳諧味がある。
開成高校
傍聴に行く葉桜の並木かな 鬼澤優太朗
省略が効いている。「傍聴に行く」だけで句意が伝わる。あの満開の桜がいま、木洩れ日の眩しい若葉になっている。この傍聴に行く裁判もそんなにおっかないものではないのだろう。冤罪事件の再審裁判かも知れない。つらい目に遭っている人が救われる裁判であったなら。葉桜の並木を見て作者もそう思っているのかもしれない。この句。季語が存分に働いている。季語が生きている。
大会の最優秀句の感想を忘れていた。申し訳ない。
学習院女子高等科
天に地に鶺鴒の尾の触れずあり 本間まどか
鶺鴒は別名:石叩(いしたたき)とも庭叩(にわたたき)とも呼ばれる。その名は長い尾を上下に振る習性があることに由来する、と歳時記にある。掲句はそれを逆手に取った句。この作者は鶺鴒をずっと観察していたのだろう。その時ある発見をした。石叩なんて言うけれど、石なんか叩いていないじゃないか。第一、地面に一切触れてない。飛ぶ時だってそうだ。天はいささか大げさだけれど、李白の白髪三千丈の比喩のように、形容は大げさに言った方が上手くゆくことがある。いままで俳人は季語の説明を鵜吞みにして鶺鴒を満足に見ていなかったのではないか。淡々としているが、この句の訴えている内容は鋭い。だが僕自身が選者だったら、この句、採らなかっただろうと思う。〈天に地に〉という措辞がよくわからない。僕の審美眼はなっていない。
今年の収穫は、
心太日はもう西の端にあり 大谷 凪
鷺あゆむ青田の水の暗く澄み 古堅咲那
秋涼の魚拓に眼なかりけり 三輪修平
新涼や木琴に桴しまふ音 山本昊太朗
葉桜や彼ら二人にしておかむ 関谷諒太
親の怒号教師の怒号百合ひらく 東海林あや
以上の6句に出会えたことが収穫だった。十代のうちにこんな秀句を詠めるなんて、この子たちが羨ましくてならない。

