両国駅から徒歩5分ほどのところに、「回向院」というお寺があります。

ここは、「振袖火事」の名で知られる、「明歴の大火」の犠牲者を葬るために

明歴3年(1657年)に開かれた、浄土宗の寺院で、

後には、安政の大地震や、関東大震災、そのほか、

海難、水死、焼死、牢病死で亡くなった無縁仏を祀っているそうで、

境内には大きな石碑がいくつも立ち並んでいます。

現在は、ペットの供養を行う寺としても有名で、大きな供養の塔が立っています。



さて、この回向院の境内には、初代中村勘三郎の墓があります。

この初代中村勘三郎は、中村座を興した人物で、

中村姓の歌舞伎役者の始祖でもある人物です。

(屋号は中村屋ではなく、柏屋だそう。)

歌舞伎見人(かぶきみるひと)
右下の案内板には、こう書いてあります。

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【江戸歌舞伎元祖】
         猿若(中村)勘三郎墓

 

寛永元年(1624年)中橋南地(現在の京橋)に

櫓を建て初興行を始めた所として

今も残っているのが京橋にあります


「江戸歌舞伎発祥之地」

                 という石碑

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・・・なんだか、よく意味のわからない説明ですが、

江戸歌舞伎発祥の地は京橋にあって、そちらの方に、

「江戸歌舞伎発祥之地」という石碑が立っているそうです。

こちら、回向院に立っているのは、江戸において最初の歌舞伎興行を始めた、

初代中村勘三郎の墓、ということになります。


↓墓石の側面。
歌舞伎見人(かぶきみるひと)


この勘三郎の墓のすぐ近くに、

竹本義太夫の墓があるのですが、

墓、というよりは、義太夫愛好家の方が大正七年に建てた追悼墓だそうです。
歌舞伎見人(かぶきみるひと)


ちなみに、竹本義太夫の本物の墓は、

大坂市天王寺区の超願寺にあるそうです。

最後に、この寺に葬られているもっとも有名な人物といえば・・・

鼠小僧次郎吉。ここには、鼠小僧の墓があるのです。

歌舞伎見人(かぶきみるひと)

↓奥に見える石が、鼠小僧の墓石です。
歌舞伎見人(かぶきみるひと)


歌舞伎見人(かぶきみるひと)
↑おや?参詣者の方々は、手前にある白い塊を削り取っているようですが、なんでしょう?



歌舞伎見人(かぶきみるひと)

↑右の立て札には、”こちらの「お前立ち」をお削りください”と書かれています。



歌舞伎見人(かぶきみるひと)
なんでも、長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削り、

お守りに持つ風習が江戸時代から盛んで、

墓石がどんどん削られてしまったそうです。

そこで、寺院が、削って持ち帰る用の石を用意したのだそうです。



ところで、なぜ、回向院に鼠小僧の墓があるかと申しますと、

これがまた興味深いのですが、天保三年(1832年)八月に、

ねずみ小僧次郎吉が小塚原の刑場(現在の南千住2丁目)で処刑され、

ここ、本所回向院に首塚が建てられたそうです。


「鼠小僧は堺町中村座木戸番の子にして、名は次郎吉。

捕らへられたるは、五月八日、浜町松平宮内小輔邸に

侵入せし時んて、取調べの末、同人の記憶せしのみ

にても、侵入大名邸は百余ヶ所、盗金一万二千両に

及ぶといふ。巷間伝へられし義賊には非ず、盗みし金は

殆ど博奕に費消。市中引廻しの上、八月十九日、品川

にて獄門に処せられる。三十八歳。」


鼠小僧は、中村座の木戸番の子だったんですね!

それにしても、一万二千両も盗んだとは、たいした大泥棒です。


↓鼠小僧次郎吉の墓の写真。
歌舞伎見人(かぶきみるひと)