(2005年9月24日:yahoo版にアップロード)
 
 
tentakaku


今特別国会で「衆議院憲法調査特別委員会」が設置された。つまり、参議院での憲法調査委員会も「常任委員会」の設置も見送られたのである。連立のパートナー公明党に自民党と責任政党に脱皮しつつある民主党が譲歩したということらしい。残念ではあるが、何事もステップ・バイ・ステップ、スロー・エンド・ステディーが大切。まあ金持ち喧嘩せず、いざとなればこちらには民主党内の健全な勢力と大連立を組む手札もある。ホッホッホッホホ、である。

しかし、ホッホッホッホホではあり、何事もステップ・バイ・ステップ、スロー・エンド・ステディーが肝要とは言え、否、だからこそ可及的に速やかに「憲法改正の国民投票法」くらいは次期通常国会で成立させてもらいたいものだ。然る後には、安全保障条項と国民の国家への忠誠義務規定、国家権力の責務としての日本の文化伝統尊重の規定の改正に進んでもらいたい。それくらいのスピード感は欲しい。そう、今は秋:平成17年の秋、皇紀2665年の秋、天高く馬肥ゆる秋、食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋、而して、現行憲法改正の秋である。

憲法改正は、しかし、本当に必要なのだろうか? 憲法を改正したとして、例えば、私の願望の通り、(1)安全保障条項、(2)国民の忠誠義務規定、(3)日本の文化伝統尊重規定の改正が行われたとして、それで現状がどう良くなるというのか? 

現在、プロ市民を結集する「9条の会」に呼びかけ人として名を連ねておられる奥平康弘先生は昔、ある法律雑誌で面白い話を書いておられた。客員の研究者としてドイツの大学で大学院生に日本の憲法を講じた際、英訳の旧憲法と現行憲法を彼等に読んでもらった時の彼等の感想についてである。「なんだ、あんまり変わらないんですね」、と。

憲法改正に関する立場こそ180度違いこそすれ奥平先生は私も尊敬する憲法研究者である。而して、奥平翁は「それには愕然とした」などの陳腐な談話は述べておられない。その雑誌が書庫に埋もれており正確な再現はできないのだが、先生は「そうなのだ。旧憲法も現行憲法もあまり変わらない。それが、憲法専攻の外国人研究者の正直な感想だろう。しかし、その「ほとんど変わらないのだが確かに変わっている何ものか」が我々日本人にとっては大切なのだ」、と概略そのように述べておられたと記憶する(★)。私自身、アメリカの大学院で何人かの大学院生に新旧両憲法の英訳を読んでもらった際に同様の感想を得た経験があるが、蓋し妥当なコメントだと思う。

★註:旧憲法と現行憲法の相違
国民主権か天皇主権か;三権は国民に責任を負うのか天皇に責任を負う輔弼機関か、また、三権の間のチェックアンドバランスは憲法的な要請か組織論的と法技術的なマターにすぎないのか;人権はその内在的制限事由たる公共の福祉による他は法律をもってしても制限されないのか、法律の規定や安寧秩序の維持の目的の前には道を譲るのか;そも、人権の本質は自然権か、それとも日本臣民の権利か;日本は一切の戦争も武力行使を行わない非戦主義の国なのか、それとも外交の延長たる戦争を豪も躊躇することのない国なのか;天皇制は現行憲法に取り残された旧制度の<盲腸=迷子石>なのか、それとも国家権力と国民が手を携えて守りぬくべき日本文化の粋なのか、等々。

どの中学や高校の教科書にも現行憲法と旧憲法の差異としてこれらの違いは書いてある。これ大きな違いだろうか? はっきり言おう。この程度の差異などは旧憲法からも容易に解釈演繹できるし、and vice versaである、と。

尚、この経緯を簡便に追体験したい向きには、現在の憲法を共時的に比較できる憲法集:たとえば、阿部照哉・畑博行編『世界の憲法集』(有信堂)や『世界憲法集』・『人権宣言集』(岩波文庫)だけでなく、通時的な視点から近代憲法を眺めることができるC・ボルンハーク『憲法の系譜』(法律文化社)の一読をお薦めする。もちろん、併せて原語とは言わないが最低でも英訳とドイツ語訳で確認するのが望ましいけれど。



奥平先生まで引き合いに出して私は何が言いたいのか? それは、旧憲法と現行憲法さえあまり変わらないのならば、平成の御世も17年目を向かえ、この豊葦原瑞穂之國を皇孫統べる国柄は微動だにせず;大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の勢いもようやく衰えかけている現在;また、憲法典と憲法を峻別する法概念論の通説からは、自衛権の行使(集団的自衛権と個別的自衛権の区別など元来存在しない)を現行憲法体制が認めていること、否、それを前提にしていることは自明なのだから、憲法を改正する意義は法論理的にも政治的にもあまりないのではないか、そういう問題提起である。結論から先に言えば、それでもなお憲法改正を実現すべしという主張を確認するための思考実験の呼びかけである。

ここで論点を(改憲が必要と一般に考えられている)日本の安全保障に絞った場合、我が国の防衛のために憲法を改正しないとできない何ものかがあるかと聞かれれば、憲法研究者の端くれだった者として「No」と私は答える。

現行憲法下でも、シーレーンを含む我が神州に中国や朝韓の連合軍が脅威を与えるか、我が同盟国に脅威を与えるのならば、日本は即座に武力の行使が可能であり、また、そうするのが国家の責務である。現行の憲法下で許されない場面とは、おそらく、同盟国アメリカを攻撃しようとするビンラディン艦隊をニューヨークの近傍ロングアイランド沖で我が勇敢かつ優秀なる海上自衛隊が迎撃するようなケースだけであろう。私のこの憲法9条の内容理解はあるいは際物や極論に聞こえるかもしれない。けれど、この憲法9条理解は実は、あの宮澤喜一元首相がイラク戦争の際に表明さられたことでもある。尚、私の憲法と国際法理解に関しては下記の拙稿を参照いただきたい。

・政治と社会を考えるための用語集(Ⅱ) 憲法
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html

・無為徒食の憲法学者の有害無比な生態
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-189.html

 
・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65232559.html

・国連憲章における安全保障制度の整理(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9a5d412e9b3d1021b91ede0978f0d241 


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憲法改正の必要性はでは何によって導かれるのか? 2005年現在の段階で私が護憲勢力の最終防御ラインと考えている東京大学の長谷部恭男さんは、その著書『憲法と平和を問いなおす』で、概略、次のように述べておられる(同書に対するより詳しい私のコメントについては次の拙稿を参照いただきたい)。

長谷部恭男教授の<憲法9条改正不要論>の検討 


・憲法改正などしなくとも日本はほとんどの安全保障上のマターをディールできる
・それなのに敢えて憲法改正を日本が行うならば、それは別の意図のメッセージとして近隣諸国(特に、中韓朝の特殊アジア諸国)に受け取られることになりはしないか
・それは、「日本は今後軍事力により大きく依存した外交を展開しますよ」というコミットメントの発信である
・日本がそのような「軍事力により大きく依存する外交」に舵をきることが本意ではないのならば、憲法には手をつけず;今までどおり平和主義の原理を掲げつつ;実際的な自衛隊の運用の準則を明確に規定し公表することがクレバーな選択だろう、と。


中庸を得た見事な主張だと思う。これが冷戦構造下の世に問われたのなら私は諸手を挙げて長谷部さんを支持し『憲法と平和を問いなおす』に喝采を叫んだだろう。そして、非武装中立論という冷戦構造下の「空想科学小説的平和主義」ならぬ「妄想詐術的平和神学」が勢力を持っていた時代にこの見解を主張したのならば、長谷部さんには護憲派から<曲学阿世の権力の犬>という名誉ある称号が授与されたことはほとんど確実である。

現に、世界の通説的な法概念論と法学方法論を愚直に展開した好著で(今では社民党の公式見解よりも穏当で)護憲派の主張としては極普通の「自衛隊は違憲だが合法的な存在である」と述べた小林直樹さんの著書『憲法第九条』(岩波新書・1982年6月)は(当時の社会党と労働戦線統合に向けた護憲側の内部抗争にも連動して)学界・言論界・護憲運動戦線の中で徹底的に批判された。また、憲法9条に関する憲法変遷論を明記された中央大学の橋本公旦さんの教科書『日本国憲法』(有斐閣・1980年)は上梓後直ちに絶版に追い込まれたのだから。

長谷部護憲防御ラインは、しかし、突破されなければならないと考える。理由は簡単だ。それは、現在が昭和55年の秋でも平成5年の秋でもなく、神武天皇即位以来2665年目の秋:平成17年の秋だからである。また、多くの国民が素直に読んで理解する憲法典条規の内容と憲法典を含む実定憲法の内容が近しい方がいいに決まっているからである。

後者につき『憲法と平和を問いなおす』はこう予防線を張っている。「憲法第九条から導かれるとされるさまざまな制約が、「不自然」で「神学的」であるとか、「常識」では理解しにくいなどといわれることがあるが、(中略)この問題に関する議論の「伝統」をよく承知しない人たちから見て、その「伝統」の意味がよくわからないかどうかは関係がない」(ibid, p.163) 「しょせんは憲法も法律であり、その解釈適用は、最後は専門の法律家の手に委ねられる」(ibid, pp.173-74)、と。

この主張にも私は同意する。しかし、逆に、「分かりやすいに越したことはない」ことは長谷部さんといえども認められるだろう。問題は、国の安全保障という国民生活の根幹に係わることについて「分かりやすさ」を確保することの法の妥当性と実効性を確保する上での利点と、憲法を改正することで特定アジア諸国に与える警戒感(とその日本へのリアクション)の比較考量に収束する。そして、私は中韓朝という特定アジア諸国との関係を好転させることは、彼等が「自己中の「中」の中華思想」を捨てない限り、今後日本側の努力によってだけでは不可能であることがこの1~2年で誰の目にも明らかになったと判断する。ゆえに、「分かりやすさ」のポイントの方により高い得点を与えたい。

而して、平成17年の今、日本は特定アジア諸国に対して「自国を自国民が守る気概を持っている」ことと「空中楼閣の戦争責任/戦後責任などについて今後も大いに議論はするけれど一切妥協するつもりはない。また、首相の靖国神社参拝について今後容喙を許すつもりもない」という凛としたコミットメントを憲法改正というメッセージに包んで彼等に伝えるべきと考える。そして、これが中長期的に見た場合の特定アジア諸国をも含むアジア太平洋地域の安定に寄与することを私は疑わない。なぜならば、自分が期待していないことが現に行われなかったとしても憤慨する国は少ないだろうからである。