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偶像破壊の一書。本書、吉川徹『学歴分断社会』(ちくま新書・2009年3月)を一読してそう感じました。著者の言う「格差論バブル」(p.7)とも言うべき、有象無象の格差社会論が猖獗を極めたこの社会において、「格差は存在するのか」「格差が存在するとして、格差なるものの存在は悪いことなのか」、あるいは、「そもそも格差とはなにか」「格差が生じるメカニズム-格差の正体はなんなのか」というラディカルな問題設定から論を立上げ、而して、実証的データを丁寧に整理しつつそれらの問いに答えて行く本書は<偶像破壊=イデオロギー批判>の労作。そう言えると思いました。


本書の基本線は、①日本社会は高卒以下と大学・短大卒以上という「学歴分断線」(p.41, p.190)を境にして大きく二つの階層に分断されつつある、②その二つの階層は人口的にも「50:50」でほぼ等しく、かつ、その階層は再生産され「学歴分断社会」(p.50)として固定化しつつある(p.151)。


そして、③この階層分化の要因は各家庭の経済力の差では必ずしもなく、家庭が継承している文化的なものや家庭に憑依している学歴を巡る価値観の差であり(p.21, p.23, p.26, p.140ff)、而して、④この学歴分断社会化現象は政策的操作によって容易に変更できるものではなく、よって、学歴による階層の固定化を善悪の基準で評価することは適切ではない(p.27,p.38)。


ならば、⑤格差社会現象に対する社会的な施策も、(少なくとも当座は)不可避の学歴分断社会化という現実を見据えて、「ニート」や「ワーキングプアー」、そして、「派遣-業務委託」という就労形態を巡る不安定な労働環境等々の問題には、「中卒者をミニマムにする」等の対処療法の積み重ねで対応していくしかない。


これはあまり愉快ではない現状認識ではあるが、現実を直視しないことがもたらすであろう悲劇に比べればこの認識を前提にする方が遥かにましである(pp.213-224)、というもの。



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教育を巡る偶像破壊には前例があります。竹内洋氏の著作、例えば、『立身・苦学・出世』(講談社現代新書・1991年)、『立身出世主義』(NHK出版協会・1997年-世界思想社・2005年)は、「受験競争」は戦前から存在したし、戦前戦後一貫して「受験地獄」と呼ばれたネガティブな感情を受験生が抱いていたとは言えないことを示した実証的研究。


更には、苅谷剛彦氏の著作、例えば、『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書・1995)、『階層化日本と教育危機』(有信堂・2001年)は、「子供達はみんなどの科目でも100点を取れるポテンシャルがある→現実にそうなっていないのは社会が歪んでいるからだ」という、日教組・全教が唱えていた、それこそ歪な妄想の<神通力>によってこの社会でそれまで一種タブー視されていた


(ⅰ)教育現場における子供達の能力差の存在、そして、(ⅱ)その能力差が必ずしも家庭の経済力の差に還元されるものではなく、むしろ、家庭の教育力や文化的蓄積の反映であり、(ⅲ)「学力-学歴」における格差は再生産され固定化している事実を明らかにしたこと。


そして、これらの事実を看過させてきたタブー。平等信仰ともいうべきこのイデオロギーこそが、(ⅳ)日本の教育現場を覆ってきた「能力主義的差別教育」批判の心性と、他方、学歴と能力の乖離に構造的原因があった時期をすぎても(高度経済成長の終焉を境に、能力はあるものの様々な理由で「大学・短大に行きたくても行けなかった層」が激減したにもかかわらず)「学歴社会-学歴主義」批判の心性をこの社会に蔓延させた要因であったこと。


畢竟、(ⅴ)「能力主義的差別教育」批判と「学歴社会-学歴主義」批判の心性は、より豊かでより安定した生活を勝ち取るために万人がより高い学歴を求め、万人が同じ条件のもと学歴を巡る競争に参加できる選抜制度と受け皿の教育機関の整備を推進し、かつ、学歴に従って職業・地位・威信が各自に配分されることを容認する意識が社会に遍く行き渡った「大衆教育社会」を裏面で支える、言わば<ヌエ的な心性>であることを苅谷氏の著作が提示したこと。


これら竹内・苅谷両氏の著作は「偶像破壊」の名に恥じない。

私はそう思っています(尚、苅谷氏の著作に関しては下記拙稿をご参照ください)。


・書評☆苅谷剛彦「大衆教育社会のゆくえ」
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57895457.html



本書の著者、吉川徹氏がいみじくも記している通り、世は正に「格差論バブル」の時代。この社会の森羅万象はすべて<格差>という概念装置で理解・説明できる、と。そのような感さえ漂っています。而して、私はこのような思想風景には既視感(dejavu)を覚える。それは、60年代後半に「疎外」と「実存」が、70年代には「物象化」と「構造」が、そして、80年代には「脱構築」と「構築主義」が一種演じていた役回りではなかったか、と。


けれども、カール・ポパーが(フロイト、そして、暗にマルクスを批判する文脈で)書いているように、「あらゆることを説明できる概念や理論はその内容において空虚」なのでしょう。実際、一世を風靡したこれらのジャーゴンを散りばめて展開された、例えば、所謂「ポスト=構造主義」が(当初から不人気だった英米はもとより、日本においても)ほとんど見る影もない現状を鑑みれば一層その感を深くせざるを得ません。


しかし、たとえ、その思想内容が空虚なものであるにせよ、「疎外」や「物象化」が「反米-反スタ」(反米-反スターリン:嫌米-嫌ソ連)という西側左翼知識人層の政治的情念のイデオロギー的反映であり、他方、「脱構築」や「構築主義」が社会主義の衰退と崩壊に直面した西側左翼知識人のリベラル派への衣替えに際してのイデオロギー的弁明であったこと、そして、個々の時代状況でそれらの概念装置がそれなりの政治的機能を果たしたことを踏まえるならば(加之、例えば、2007年の<7・29>参議院選挙において安倍自民党を地滑り的惨敗に追い込んだ格差社会論の実績を踏まえるならば)、たとえ、「格差」の意味内容がいかに空虚なものであれそれがいまだに警戒すべき概念装置であることは間違いないと思います。


その意味でも、計量社会学専攻の大阪大学大学院人間科学研究科の准教授にして「階層意識の計量分析の専門家」(p.159)である著者が、本書において、学歴の切り口から「格差」の正体に迫り、而して、「格差」は善悪の此岸を越えた事象であることを実証したことは、「格差概念の空虚」のみならず「格差社会論の狡知」をも暴露したものである。畢竟、これが本書を偶像破壊的の一書と私が看做した所以です。


海馬之玄関amebaブログ ◆概要
本書の目次は以下の通り、


はじめに
第1章:変貌する「学歴社会日本」
第2章:格差社会と階級・階層
第3章:階級・階層の「不都合な真実」
第4章:見過ごされてきた伏流水脈
第5章:学歴分断社会の姿
第6章:格差社会論の「一括変換」
第7章:逃れられない学歴格差社会
あとがき
主要参考文献





格差現象の「主成分=正体」は学歴である(pp.31-32)。この命題が本書の全体を貫く中心軸であり、他方、「学歴分断線」(p.41, p.190)の存在とそれによる「学歴分断社会」(p.50)としての日本というこの社会の現状認識が本書の主旋律と言ってよい。而して、「格差論バブル」に引き付けて本書の狙いを著者はこう述べています。


「学歴社会と格差社会の関係をうまく説明する理論が、まだあらわれていない」「「学歴社会」と「格差社会」は、ともに世の中の上下の序列を扱う論理であるはずなのに、なぜか接点をもって語られることがありません」「総中流がいわれていた30年前、日本人の半分近くは義務教育を終えてすぐに社会に出た人たちでした。ところが現在では、50歳以下の人たちの4割が大学や短大を出ているのです。いまの進学率が続いていくと【進学率は2007年度と2008年度で各々、53.7%と55.3%】、まもなく大卒層と高卒層の境界線が、日本社会をおおよそ半分に切り分ける状態になります。


このことが、いまの格差社会の出来事の底流にあることは【学歴は原理上この社会のすべての構成員が保有する属性であり、他方、現在がいかに失業等々のリスクから誰も自由ではない「リスク化」の時代とはいえ、トータルでは、学歴と所得、学歴と雇用の安定に相関関係があることは否定できないのだから】、少し考えればだれにでも見通せるはずです」「つまり、格差社会の「主成分」は、上下に分断された日本人の学歴ではないかと考えるわけです」(pp.9-11)、と。


このような問題関心から著者は、本書第1章~第5章で、格差社会論の検討と学歴分断社会の説明(学歴分断社会成立とその社会内部での社会階層移動のメカニズムの説明)を行い、それらを前哨として第6章では数多の格差社会論の主張を学歴分断社会論のパラダイムに整合的に組み込む作業を行なう。而して、本書の掉尾を飾る第7章では、21世紀前半の日本に生きる我々が学歴分断社会と、謂わば<平和的共存>するための覚悟と方針が提示されています。尚、格差社会論との関連では次のような主張が記憶に残りました。



ガラスの天井
「大学全入時代を招く最も大きな要因は、大学に行きたいと望む高校生が半数程度しかいないということにあります」(p.17),「昨今の学歴社会は、親の学歴が・・・著しく高まってきたという点で、「子どもは親より学歴が高くなる(する)のは当たり前」と考えてきた昭和の学歴社会とは、まさに隔世の感があります」(p.20),


「このデータは「大学に行きたい(行かせたい)のに、やむを得ない事情で進学を断念せざるをえません」という高校生(とその親)が、この十数年の間に【1987年~2003年の間に】日本社会から消えていったということを示しています」(p.23),


「結局大学進学率50%のところには、調整しなくても頭打ちになるような「ガラスの天井」がある」(p.26),「つまり、大卒/非大卒フィフティ・フィフティというのは、政策上の手を加えることで簡単に変えられるものではなく、現代日本社会のさまざまなものごとが、がっちりと組み合わさって生み出されている比率なのです。そしていまこの比率が親世代と子世代の間で受け継がれ、同じかたちで繰り返されているのです」(p.27)



豊かさ・格差・不平等
著者の語る通り、「「格差」として一括りにされがちな問題には、「豊かだが格差が大きく、不平等な社会」といった一筋縄ではいかない状態が、いくらでもありえる」(p.88)。蓋し、経済的な部面に限定したとしても、百花繚乱・千紫万紅「格差論バブル」を彩った数多の格差社会論のほとんどは「社会の豊かさの程度」「豊かさの分布=格差」「豊かさを求めての競争における不平等=格差を発生させる因果的なしくみ」の三者を混同するものだった。而して、それらは平等と自由のよりバランスのとれた社会の再構築という現下の日本社会が抱える課題に対してほとんど寄与できなかったと私は考えています(cf. pp.78-88)。



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<続く>