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法哲学とは何を考える学問領域か? この古くて新しい質問に平明簡潔に応えたのが、矢崎光圀『法哲学』(筑摩書房・1975年12月)です。特に、第1章第5節「法哲学の五つの仕事」は日本の法哲学界の共有財産と呼ばれる知見がコンパクトにまとめられている。

 

 

 

私の恩師の一人で、英国の分析法学の紹介者として高名な八木鉄男先生のご縁で矢崎先生とは何度かシンポジュームとかでご一緒させていただいたことがあります。而して、はっきり言って矢崎先生は、驚異的な語学のセンスの持ち主であるだけでなく「頭がいい」という言葉はこの人のためにあるという印象の方。同じ著者の『法哲学』(青林書院・2000年1月)は法理論よりも法現象、理論の帰結よりも理論が構築されるプロセスに焦点を当てたもので初心者にはこちらが解りやすい、鴨。というか、「法律」より「英語」と「国語」何ですけどね、学部とか修士過程の間は。

 

・[平成の思い出にもう一度]新版☆法律学の<KABU>基本書披露

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/59a4a81fe3c6b905063199ec044b7bd5

 

 

さくらんぼ

 

 

法学を学び始めた頃、誰もが感じる快感は、世の中の現象を(もちろん、社会的な現象に限られますが、)法的に理解する/法的に説明することができる快楽でしょう。「今PCに向っているが、これも電力会社との電気供給の契約やプロバイダーとのネット回線使用に関する契約が履行されているのだ」とかの他愛もない類の知見でも、何かの切り口で世の中を統一的に再構築する経験の乏しい学部生には感動もんの事柄。

 

 

しかし、何かの学的領域が成立しているということは、その学的領域のパラダイムと学的領域特有の言語で世界を再構築できるということに他ならないでしょう。簡単な話です。経済学者は経済学的に世界を眺め、法学者は法学的に世界を眺めるということ。そして、法学や経済学の知識とはそのようにして眺められた世界に関する知識の体系のこと(加之、そのような特殊な眺めを可能にする認知の枠組みとその認知枠を形成する独特の言語こそが法学や経済学と言うべきでしょうか)。

 

 

而して、法学特有のパラダイムと法学特有の言語の性質と構造を吟味すること自体が法哲学の主要な分野の一つなのです。この分野に関しては日本の法哲学を代表するテキストが、碧海純一『新版法哲学概論』(弘文堂)。初版は1959年1月、新版が1968年2月、全訂第1版が1973年2月、そして、全訂第2版は1989年に出版されている法哲学プロパーではベストセラーの一書。私の手許にある全訂第2版補正版は2000年12月の出版(この版は小林公さんと森村進さんとの共著の体裁を取っています)。

 

 

分析哲学に収斂した論理実証主義とカール・ポパーの批判的合理主義に根ざす本書の筆致は日本の法哲学に一時代を築いたもの。概念実在論的なヘーゲルやマルクスを斬り捨てる論理は美しいほど暴力的です。これでも本書の初版が持っていた「偶像破壊的」な持ち味は版が改まるに従い大人しくなったらしい。ちなみに、私はこの著書を批判的に読む立場なのですが、公平に見て、文章の解りやすさという点では類書中最良のものの一つだと思います。

 

 

尚、「哲学を否定するがごとき碧海法哲学」への伝統的な法哲学的見地からの批判については竹下賢編『実践地平の法理論』(昭和堂・1984年9月)および竹下賢『法 その存在と効力』(ミネルヴァ書房・1985年10月)の他、法哲学の領域における私のもう一人の恩師、加藤新平先生の『法哲学概論』(有斐閣・1976年2月)の第2章「法哲学の学問的性格」、デユーウェル『法意識と実存的決断』(理想社・1975年6月)を参照していただきたいと思います。

 

 

キノコ

 

 

国旗・国歌の強制は憲法違反だ。こんな発言を目にするとき、「これらの主張を述べる論者にとっては憲法の内容など自明の事柄なのかしら。もしそうなら、羨ましい限りだわ」。と、そう私はいつも感じます。

 

 

でもね。でも、憲法とか法律とかそんなに明確なものでしょうか? 条文や判例から法の意味内容を掬い取るためには<解釈>という思考が必ず伴なわなければならないのではないでしょうか? しかも、東京大学の長谷部恭男さんの言葉をお借りすれば、「専門の法律家による解釈」というプロセスを潜ってね。

 

 

では、法とは何か? 法の意味内容は何を見れば(どのような作業を行なえば)発見できる/創造できるのでしょうか? この前者の問題を扱う法哲学の分野が法概念論、後者の課題を担当する分野が法学方法論。と、そう講学上呼ばれています。

 

 

いちご

 

 

法概念論について最も滋味豊かなテキストは、先程も紹介した加藤新平『法哲学概論』(有斐閣・1976年2月)でしょうか。本書は著者ご自身「教科書というより論文集」と言われていたようにテキストとしての出来栄えは全然駄目。教科書としての使い勝手も悪い。否、最悪。しかし、加藤法哲学のアンソロジーとしては芳醇かつ凄みのある作品だと思います。特に、第4章の「法の概念」。この章だけで141頁! 法の概念と密接に関連する第3章「自然法と実定法」を併せると270頁!! 実に本書の60%を占める大論文です。恩師に対する胡麻擂りではなく、本音として、本書は決して読みやすくはないが損はしない著書、とそう思います。

 

 

その他、法概念論の分野では、例えば、八木鉄男『分析法学の研究』(成文堂・1977年7月。但し、本書の主要部分を成す第1篇『分析法学の潮流』は1962年に出版されたもの)、同『分析法学と現代』(成文堂・1989年7月)、尾高朝雄『法の究極に在るもの』(有斐閣・1955年3月)、カール・シュミット『憲法論』(みすず書房・1974年5月。尚、本書には尾吹善人さんの訳の『憲法理論』(創文社・1972年)ともども達人の訳業です)、H.L.A ハート『法の概念』(みすず書房・1976年2月)。これらは法概念論の必読文献だと思います。

 

 

但し、最後者は訳文の文章は解りやすいのですが(何故なら、語学の名人・矢崎光圀先生の監訳!)、ハート自身のバックボーンたる分析哲学についての理解がないと内容の理解には限界があると思います。下手をしたら、「ハートの言う第1次ルールと第2次ルールの差異は、結局、憲法と法律との違いだ」、「いやいやそれはケルゼンの語る根本規範と憲法以下の実定法に対応している」とかの出鱈目な理解で終わる可能性が少なくないの、鴨。実際、これらの発言を自信たっぷりに語られた某大学の憲法の教授を私は知っていますもの。

 

 

ということで、今更、分析哲学を勉強する余裕も義理もない方が『法の概念』を読む場合には(法哲学者の著書ではありませんけれど)、橋爪大三郎『言語ゲームと社会理論』(勁草書房・1985年8月)の第1章と第2章、または、同著『はじめての言語ゲーム』(講談社現代新書・2009年7月)の併読をお勧めしておきます。尚、「道徳は法か」とか「ヤクザ社会の常識は法か」、あるいは、「国旗国歌を起立斉唱しなかった公立学校の教員を処罰するのは合憲か」とか「違憲のイラク派遣の命令を自衛隊員は拒否することができるか」等々の法律談義の定番の論点。それらの論点と地続きの法概念論のテーマ、専門用語で言えば「悪法論」に関しては、八木鉄男『悪法論と法実証主義』(同志社法学第98号所収)か、井上茂・矢崎光圀・田中成明編『講義法哲学』(青林書院新社・1982年1月)所収の八木鉄男「悪法論」を是非参照していただきたいと思います。

 

 

オレンジ

 


法の意味内容はどのようにすれば発見/創造できるのか? この問いに対する解答集である法学方法論の教えは(オカルト的や心霊術的な天才の技を除けば)、大きく二通りしかないと私は思っています。すなわち、(イ)法体系-法秩序からのアプローチと、(ロ)ある価値体系からのアプローチの二つ。

 

前者は、その意味内容を求めようとしている条文や判例の主意が属している法体系全体からそのパーツである当該の法規範の意味を復元するアプローチであり、後者は万人が(この「万人」が問題なのですけれど)、納得する/納得するであろうある「法的-社会的の価値」から当該の法規範の意味内容を確定していくアプローチです。

 

 

これら二つのアプローチ方法とも、もちろん、完全なものではありません。蓋し、前者の弱点は「法体系-法秩序」の範囲や意味自体が往々にして不明確であること、他方、後者の弱点はある「法的-社会的」の価値の意味内容が不明確であるだけでなく、その「万人に対する正当性」を論理的には誰も担保できないことにあると言えるでしょう。簡単なことです。要は、いずれのアプローチ方法を選択するにせよ、法規範の意味内容(例えば、憲法の意味も教育基本法の意味も)そんなに自明なものではないということ。

 

 

リンゴ

 

 

前者の(イ)体系的なアプローチ方法を知る絶好の著書は井上茂『法哲学』(岩波書店・1981年6月)、同『現代法』(日本放送出版協会・1970年4月)、同『法規範の分析』(有斐閣・1967年12月)、同『法秩序の構造』(岩波書店・1973年4月)。

 

 

そして、翻訳が凄まじく難渋なので、ドイツ語が読める方は原書を読んだ方が遙かに時間の節約になるのですけれども、ハンス・ケルゼン『純粋法学』(岩波書店・1935年4月)、『一般国家学』(岩波書店・1936年11月、1971年1月)は体系的な法学方法論の原型を作ったと言える、百歩譲っても、体系的な法学方法論の中興の祖ではあるケルゼンの著作でありやはり一読をお勧めしたい、鴨。ちなみに、『一般国家学』をケルゼン自身が(しかも、母語たるドイツ語ではなく亡命の地の言葉の英語で)、書き直した"General Theory of Law and State"の翻訳もでています。尾吹善人訳の『法と国家の一般理論』(木鐸社・1991年9月)。偉そうな物言いではなく、私は旧版のドイツ語原書も翻訳も英語の新版原書も読んでいるのでそうわ感動しませんでしたけれど、尾吹さんの訳は可能な限りリーダーフレンドリーネスに配慮された好訳だと思います。

 

 

ところで、私は、井上茂先生の<法体系論>に極めて強い親近感を覚えてきた者です。四半世紀近く前、私が主催したある講演会の準備ミーティングで、何の弾みか、井上先生が自ら「法体系や法の秩序というのは、憲法を奥行きにして軽犯罪法とかが、法体系全体として社会に押し出すんですよ」と言いながら、お臍の少し上あたりの中空に両腕とご自分のお腹とで三角形を作られ、その三角形を身体ごと13センチほど前方に「押し出」して井上法哲学のエッセンスを体を使って伝授して下さったのを昨日のように覚えています。

 

 

б(≧◇≦)ノ ・・・懐かしい~!

 

 

法学方法論のもう一つのアプローチ方法たる(ロ)法的-社会的価値から法規範の意味内容を確定する方法を知るには、実は、法概念論の領域を越えて、所謂「法価値論」についての基本的な知識が不可欠になりましょう。そりゃー、そーでしょう。法がどんな価値を実現しようとしているのかを知らず(どんな価値や理念が法規範に昇華してきたかを知らないで)、価値と法規範の関係を理解することなどできないでしょうからね

 

 

而して、下記に紹介する書籍は、①法価値論、すなわち、法的な価値のメニューと法思想の歴史、ならびに、法的な価値と法規範の協働関係を検討する作業をカバーするものと、②法学方法論プロパーに思考の焦点を集中しているものの両者を含みます。

 

 

バナナ

 

 

先ず、①法価値論・法思想史をカバーするもの。八木鉄男『法哲学史』(世界思想社・1968年6月)、加藤新平『新版法思想史』(勁草書房・1952年5月)、伊藤正巳『近代法の常識』(有信堂・初版・1960年10月、第三版・1992年10月)、および、井上茂『自然法の機能』(勁草書房・1961年9月)。

 

 

また、法哲学の標準的なテキストではありますが、学説史に目配りしつつ妥当な法解釈をいかにして実現するかの点に意を注いだテキスト群として、尾高朝雄『改訂法哲学概論』(学生社・1953年5月)、団藤重光『法学の基礎』(有斐閣・1996年2月、但し、本書の前身『法学入門』(筑摩書房)は1973年に出版されました)、矢崎光圀&八木鉄男『法哲学入門』(青林書院新社・1978年7月)、および、碧海純一『合理主義の復権 反時代的考察』(木鐸社・1973年10月)、碧海純一編『法学における理論と実践』(学陽書房・1975年10月)、ならびに、原秀男『価値相対主義法哲学の研究』(勁草書房・1968年4月)、小林直樹『憲法の構成原理』(東京大学出版会・1961年3月)。

 

 

ぶどう

 

 

そして、②法学方法論の領域にフォーカスする法哲学の基本書として是非ともお薦めしたいものは、ラートブルフ『法哲学』(東京大学出版会・1961年2月)、田中成明『法理学講義』(有斐閣・1994年12月。本書の前身の『現代法理論』(有斐閣)は1984年10月に出版)、および、小林直樹『法理学 上巻』(岩波書店・1960年2月)。

 

 

最前者、ラートブルフ『法哲学』は大御所=田中耕太郎先生の達意の訳も与して力あって、21世紀初頭の現在でも最高水準の法哲学の入門書だと私は思います。他の二書も、実は、本質的に曖昧で不確かな法規範からいかにすれば安定的で現実的・妥当な法規範の意味内容を間主観的に導き出せるかについてのヒントが散りばめられている。宝の山です。そう、ここ掘れ、ワンワンの優れもの。

 

 

尚、ここで紹介した書籍を全部読むのは少し大変だな、という向きにはラートブルフ『法哲学』と田中成明『法理学講義』、そして、碧海純一『法と社会 新しい法学入門』(中公新書・1967年2月)、ならびに、伊藤正巳『近代法の常識』の4冊を取り合えず読まれればよいの、鴨。そう思います。