海馬之玄関amebaブログ




日本の首相は、すべからく、可能なら毎日でも東京は九段の社に参拝して、英霊の御霊に対して感謝の誠を捧げるべきだ。と、そう私は考えます。けれども、ご案内の通り、日本の首相の靖国神社参拝は、2006年8月15日の小泉純一郎総理の参拝以来中断している。これは慚愧に堪えないこと。


而して、その中断の原因が、外においては、支那・韓国・北朝鮮という特定アジア三国の非難・批判・反対であり、他方、国内においては、左翼・リベラル派という反日分子の非難・批判・反対であることは8歳の子供も88歳の高齢者でも知っていることでしょう。


蓋し、私は、他の少なからずの保守派の同志の方とは、おそらく些か異なり、日本の首相の靖国神社参拝を支那や韓国が非難し、あるいは、反対の表明を出すのは彼等の自由であろうと考えます。それは、(Ⅰa)実質的影響力を行使して、(Ⅰb)他国が主権国家に対して国際法的に当然認められている政策決定の裁量に容喙することという、国際法上の「内政干渉」でもないし、加之、(Ⅱ)彼等が、彼等の国家権力を正当化する歴史認識、すなわち、<歴史物語>や<政治的神話>というイデオロギーに導かれて日本国の首相の言動を批判するのは、寧ろ、当然のことと思うからです。


けれども、(その批判が、国際法と確立した国際政治の慣習の枠内でなされるものである限り)特定アジアが日本を批判するのも自由なら、逆に、日本が彼等を批判するのも自由であり、まして、(これまた、日本国や日本国総理大臣の行動の選択が、国際法と確立した国際政治の慣習の枠内に収まるものである限り)日本には彼等の批判なりを受容しなければならない義理も義務も全くないことも自明のことでしょう。一般論としてもここまでは言えるのです。


而して、その国際法と確立した国際政治の慣習を紐解くまでもなく、ある主権国家、すなわち、「国民国家=民族国家」が、その国のために殉じられた英霊を祀ること、加之、どのようなスタイルでその英霊の御霊をお祀りするかの方法の選択は、優れて当該の主権国家の裁量に任されている事柄であり、要は、日本の首相の靖国神社参拝を非難する支那や韓国の言説は、国際法的に見ても単なる非常識、端的に下品な振る舞いでしかない。


畢竟、首相の靖国神社参拝に関しては、上で述べた如き(重要なことなので繰り返しますが、特定アジアが日本を批判するのも、日本がその批判を歯牙にもかけず無視するのも相互に自由という)一般論から更に一歩踏み込んだ「日本の首相の靖国神社参拝」を巡る現実具体的な各論においては、特定アジアの対応は非であり、日本の小泉首相の靖国神社参拝は是であると言えるでしょう。


けれども、私は、(各論においては、結局、否定されることになるにせよ、少なくとも一般論としては、支那や韓国がそれを非難することや反対することは自由なのですから、)日本の首相の靖国神社参拝に関して最も問題にされるべきは、日本国内の反日分子の言動である。就中、憲法論的に到底成り立たない「首相靖国神社参拝違憲論」なるものを唱える、故意とすれば姑息で悪質、過失とすれば無知蒙昧な左翼・リベラル派による「憲法学の用語を散りばめた我田引水かつ牽強付会の政治的言説」であろうと考えています。


本稿は、保守派による政権奪還が秒読みに段階に入りつつある現在、保守政権の対特定アジア政策を整序する前哨として、憲法解釈論と憲法基礎論の地平から「首相の靖国神社参拝」を巡る内外の不埒な憲法論を咎めようとするものです。



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◆平成18年6月23日・最高裁判決の概要
5年半前のこと、2006年6月23日(平成18年6月23日)に一つの最高裁判決が下されました。そう、小泉首相の靖国神社参拝の是非が争われた上告審判決。それは政教分離を巡る憲法判断を行わず(=首相の靖国神社参拝が公的行為か私的行為かの判断も行わず)、原告に訴訟を争える立場にないとする、いわば「訴訟の入り口論」で原告・上告人の訴えを退けたもの。蓋し、妥当で穏当な判決と私には思われたもの(判決文は下記PDF情報をご参照ください)。


・平成18年6月23日最高裁判決

 http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20060623112512.pdf



本稿の帰結を前倒しさせていただければ、「神道は宗教に非ず」「神道は近代主権国家日本の実質的意味の憲法のパーツの一つである」「元来、政教分離原則とは、社会的威力たる教会組織が公的権力の行使に容喙関与すべきではないという主張にすぎず、社会学的観察からは宗教的行為と看做される一切の行為を国家や地方自治体に対して認めないというものではない」と考える私にとっては、些かこの最高裁判決には不満が残るものではありました。


すなわち、私は、(ⅰ)首相の靖国神社参拝は日本国の最高指導者としての内閣総理大臣が当然行うべき公的行為であり、加之、(ⅱ)護国のために散華された英霊の御霊を実質的意味の憲法たる国家神道の形式に則って祀ることは国家の当然の権限であり責務でさえある。よって、(ⅲ)首相の靖国神社参拝は、(ⅲa)毫も現行の憲法典(=形式的意味の憲法たる「日本国憲法」)に違反するものではない。否、(ⅲb)現行憲法に違反しないどころか、寧ろ、日本の現行憲法秩序(=形式的意味の憲法たる日本国憲法、および、日本の実質的意味の憲法の両者が織り成す実定法秩序の法体系の)の要請でさえあると考えています。


この最高裁判決を受けて出された小泉首相の談話「戦没者の犠牲の上に今日の平和と繁栄がある。戦没者に哀悼の意を尽くすのは憲法以前の問題だと思う」という言葉を使って私見を敷衍すれば、「戦没者に哀悼の意を尽くすのは形式的憲法たる現行憲法が当然容認する事柄であり、それは、この国の実質的意味の憲法が、皇孫統べる豊葦原之瑞穂国の政治指導者たる内閣総理大臣に要求する憲法的な責務でさえある」ということ。而して、件の平成18年6月23日の最高裁判決には、正直、物足りなさを感じざるを得ない、と。


けれども、法理論的に見れば、個別の訴訟案件の解決に必要とされる範囲でのみ法令審査(judicialreview)を行う権限を裁判所に認めている現行憲法の司法審査権制度(=付随的違憲審査制)の下では、憲法判断をする必要のない案件については粛々と「訴訟の入り口」で案件を処理することこそプロフェッショナルな、裁判所たる裁判官の態度というものでもありましょう。


税金が投入されており、かつ、選挙で選ばれたわけでもないテクノクラートたる裁判官が担う裁判制度の有り様を鑑みれば、政治が解決すべき領域は政治のプロセスに任せるべきなのであって、その司法セクターと政治セクターの役割分担に沿ってよりコストフォーマンスのよい紛争解決方法を司法が目指すべきことは当然のことででしょうから。


換言すれば、「司法はあくまでも法的紛争処理を法規に則って行う公的サービスであり、それは間違っても政治的表現の舞台などではないこと。否、裁判を通じて自己の政治的や護憲真理教とも呼ばれるべき宗教の宣伝を行うことは原告の勝手ではあるが、その便宜をはかる義理も義務も裁判所にはない」こと。畢竟、「政治的紛争の解決は狭義の政治のアリーナでこそなされるべき」こと。これらの憲法論の常識をこの最高裁判決ははっきり確認したということでしょう。


すなわち、司法や憲法は万能ではないこと。司法が解決すべき問題は司法が、政治が解決すべきものは政治が解決するべきだというあたり前のことが、しかし、この日本ではしばしば見落とされがちなことをこの最高裁判決は照射したの、鴨。


いずれにせよ、この判決は、戦後民主主義に憑依した、権力の万能感や憲法万能論的の妄想から解放され、国の方針と秩序のあり方は(1946年に生きた日本人ではなく)21世紀に生きる日本人自身が政治を通して決定し具現していくしかないということを日本人に示唆したと思います。それは保守主義と親和的な教示内容であり、而して、日本が皇孫統べる豊葦原之瑞穂国の理念を中核として21世紀をも生き抜いていく上で貴重な教訓なの、鴨。以下、当該の最高裁判決を報じた2006年6月23日の産経新聞記事を資料として引用しておきます。



首相の靖国訴訟、原告の敗訴確定 「法的利益の侵害なし」
小泉純一郎首相が平成13年8月、靖国神社を参拝したのは憲法の政教分離原則に反し、精神的苦痛を受けたとして、日韓の戦没者遺族ら278人が国や小泉首相、靖国神社を相手取り、違憲確認と1人当たり1万円の損害賠償を求めた訴訟の上告審判決が23日、最高裁第2小法廷であった。


今井功裁判長は「本件参拝によって上告人らに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない」として原告側の上告を棄却、請求をすべて退けた2審・大阪高裁判決が確定した。歴代首相の靖国参拝をめぐる最高裁判決は初めて。


1審・大阪地裁は公的参拝と認定した上で、憲法判断に踏み込まずに請求を棄却。2審は公私の別や憲法判断に触れず、原告側の控訴を棄却していた。原告側は戦没者を祭祀するか否かについての決定権を侵害されたと主張していた。


判決理由で今井裁判長は「人が神社に参拝する行為自体は他人の信仰生活などに対して圧迫、干渉を加える性質のものではなく、他人が特定の神社に参拝することによって、自己の心情ないし宗教上の感情が害され、不快の念を抱いても、被侵害利益として損害賠償を求めることはできない」と指摘。その上で「内閣総理大臣の地位にある者が靖国神社を参拝した場合も異なるものではない」と判示した。さらに、こうした点も踏まえ、「本件参拝が違憲であることの確認を求める訴えに確認の利益がなく、却下すべきことも明らか」とした。


首相「戦没者に哀悼の意を尽くすのは憲法以前の問題」
判決について、小泉純一郎首相は23日昼、訪問先の沖縄県糸満市で記者団の質問に答え、「戦没者の犠牲の上に今日の平和と繁栄がある。戦没者に哀悼の意を尽くすのは憲法以前の問題だと思う」と述べた。また、安倍晋三官房長官も記者会見で「国が損害賠償の責任を負うものではないという国側の主張が認められた。最高裁判決なので、これによって判例が確定したと考える」と述べた。


上告審判決の要旨
【法的利益の侵害】人が神社に参拝する行為自体は、他人の信仰生活などに関して圧迫、干渉を加えるような性質のものではない。他人が特定の神社に参拝することで、自己の心情または宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても、これを侵害された利益として直ちに損害賠償を求めることはできないと解釈するのが相当だ。


原告らが主張する「戦没者が靖国神社に祭られているとの観念を受け入れるか否かを含め、戦没者をどのように回顧し祭祀するか、しないかに関して(公権力からの圧迫、干渉を受けずに)自ら決定し、行う権利または利益」もこのような心情または宗教上の感情と異なるものではない。


このことは内閣総理大臣の地位にある者が靖国神社を参拝した場合でも異なるものではなく、本件参拝で原告らに損害賠償の対象となりうるような法的利益の侵害があったとはいえない。損害賠償請求は理由がないものとして棄却すべきだ(参拝が違憲であることの確認を求める訴えに確認の利益がなく、却下すべきことも明らかだ)。


【滝井繁男裁判官の補足意見】

他人の行為で心の平穏を害され、不快の念を抱くことがあったとしても、その行為が過度にわたり、自由を侵害したといえる場合に初めて法的保護を求めうる。


誰でも、公権力が自己の信じる宗教によって静かで穏やかな環境で特別な関係にある故人の霊を追悼することを妨げたり、意に反して別の宗旨で故人を追悼することを拒否でき、強制を伴わなくても法的保護を求めることができる。国などの行為でそれが侵害されたときには、損害賠償を請求できると考えるが、原告らはそのような個別的利益を主張していない。


また特定の宗教施設への参拝という行為で内心の静穏な感情を害されないという利益は法的に保護されたということはできない。侵害行為の態様にかかわらず、原告らの法的利益が侵害されたとはいえない。参拝が政教分離に反する違憲なものかどうかを問うまでもなく、侵害された利益を認めることはできないので、本件請求は失当だ。



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天照大神




<続く>