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TPP協定締結の是非を巡って、外交評論家の岡本行夫氏が「条約の締結は内閣の専属的権限」であると述べられた由。この主張は正しいのでしょうか? そもそも、「条約の締結は内閣の専属的権限」とはどのような意味なのか。そして、この命題の真偽によって日本の政治は、各々どんな色彩をおびることになるのでしょうか。


本稿は、岡本氏の発言を導きの糸として、憲法基礎論(憲法の概念論・憲法解釈方法論・憲法の価値論・憲法の現象学的な意味構造の抽出と理解)の地平から憲法と条約の優劣関係を俎上に載せるものです。 尚、註(★)は些かマニアック、よって、註を飛ばしても本編の理路は通るようにしていますので、ご用とお急ぎの向きには註は飛ばしていただければと思います。ということで、まずは、岡本行夫氏(外交評論家・元内閣総理大臣補佐官)の発言の確認。


「外交交渉を行って協定を締結するのは内閣の専属的な権限として憲法73条に書いてある通りだ。だから内閣だけの判断でできる。国会はただ出来上がった協定を承認するかしないかだ。気に入らなければ批准しないということだ」(テレビ朝日「報道ステーション」(2011年11月11日)より)    



◆条約締結を巡る内閣の権限と責任
条約の締結は内閣単独でできる、また、国会が批准しない条約は発効しない。確かにこれらは正しいでしょう。但し、条約法に関するウィーン条約(条約法条約)2条1項a号「「条約」とは、国の間において文書の形式により締結され、国際法によつて規律される国際的な合意(単一の文書によるものであるか関連する二以上の文書によるものであるかを問わず、また、名称のいかんを問わない。)をいう」を紐解くまでもなく、<条約>とはその文書名が「条約」であるか「協定」であるか「議定書」等々であるかといった、文書のタイトル名にかかわらず、国家間の文書による取り決めを言います。よって、ある種の<条約>は国会も締結できるのですから「専属的権限」、すなわち、「専権事項」という表現は厳密に言えば間違いと言うべきですけれども。


けれども、外交は軍事と並び、法律論プロパーの事柄であるだけではなく、文字通り、国際政治のど真ん中の事柄。ならば、内閣はその「専権事項」に関して国会と国民、あるいは、(日本政府、すなわち、日本の内閣がしたその約束を考慮して、作為・不作為のなんらかの行動を取るであろう)他国に対する政治責任を負っている。 

   

ならば、統治機構の政治的な権限と責任の範囲を定めることが、これまた、憲法のど真ん中の機能だとすれば、内閣の「専権事項」なるものはこれら、国会・国民・外国に対する三種の政治責任を踏まえたものでなければなりません(でなければ、国会と行政官庁だけで内閣はいらんがね!)。而して、その制約は、「政治的-社会学的」な道義的の責任であるだけでなく、(裁判所に対して、その制約の逸脱を根拠に差し止め請求や損害賠償の請求ができるという裁判規範とは言えないだろうけれども、)憲法が内閣に課す法的な責任である。要は、その制約を踏み外した内閣の行為を憲法は正当化することはないということです。


畢竟、この憲法論的な責任理解からは「専権事項」なるものは「政治的=憲法論」的に大幅な制約を受けている。と、憲法論からもそう言えるのです。要は、条約の締結に関する内閣の権限は謂わば「準専権事項」にすぎず、また、岡本氏の立論は、憲法典の文字を読んだだけの素人談話か素人を騙る三百代言的の言説であり、白黒はっきり言えば憲法論的には間違いなのだと思います。



◆国際法と国内法の優劣の構図
どの憲法のテキストにも書かれていることでしょうが、「条約の効力は、国会が制定する「法律」以下の(政令・省令・条例・規則等々の)国内法に優るけれど、憲法よりは劣る」。これが、一応、日本の通説。ただし、世界では、そして、日本でも現在は「条約」も「憲法」も単一均一のものとしてではなく、各々その内部に幾つかのグループを認め、それらの種類毎に互いの優劣の関係を考えるようになっています。


重要なことは、「国際法と国内法の優劣関係」という問題は、


①具体的事件に関して、相矛盾する国内法と国際法が存在する場合、どちらの法規範が適用されるかという、謂わば「交通整理の問題」と、②そもそも、憲法にせよ条約にせよ、ある法規範が<法>として効力を帯びる根拠としての授権関係において、(例えば、「法律」は憲法から授権されているから、政令・省令は「法律」によって授権されているから<法>として有効であるのと同様に、)どちらが授権規範でどちらが被授権規範かの問題。「授権-被授権」関係の問題。


この①②を含んでいることです。そして、例えば、憲法無効論のトンデモ言説にしばしば現れるように、日本では、この無関係ではないけれど位相を異にする異質な①②が同じ「国際法と国内法の優劣関係」の問題として扱われる節もなきにしもあらずであり、よって、①②の事柄がしばしば混同されているのではないかと思います。


而して、基本的には、①の「交通整理的のルール」は、原則、ある「実定法秩序=国内法体系」においては、憲法を始めとする国内法が定めることであり、そして、個別、日本では現行憲法98条の最高法規規定(「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」 との規定)によって、条約は(就中、その条約が自動執行性を持っている場合、つまり、その条約の規定が、新たな国内法の制定・改正を待たずして十分に裁判規範や行政官庁の行為規範として機能しうる具体性と現実性を持つ場合には、その条約は)「法律」以下の国内法に優位する。


ただ、①における通説たる憲法優位説、あるいは、(国家と憲法の関係を表裏一体の関係と考え、かつ、論理的にも権利的にも国家が憲法に先行すると考えるタイプの、現在の保守主義の)憲法の概念論と憲法の事物の本性論からは、すべての主権国家は(よって、多分、日本も?)、それが締結・批准した条約を、それがどんな条約であれいつでも破棄することができることは言うまでもありません。


要は、「国内法に対する条約の優位」と言ってみてもそれは、ある、主権国家がその条約を受け入れている限りのお話ということです。尚、②の議論は法哲学の各論に及ぶこともあり詳細は割愛しますが、現在では世界的に「国内法・国際法一元論の国際法優位説」が多数説であり、最早、通説になったと言ってもよいと思います。←「認定トライ」?


重要なことですので繰り返します。


①②は無関係とは言わないけれど、全く別の問題であり、例えば、①の憲法優位説と、②の国際法優位説は矛盾しません(例えば、国際法体系からの授権を受けているから、ある「国内法体系=実定法秩序」は<法>として効力を持つが、その授権に際して、「国内法体系=実定法秩序」の規範の内容は当該の国が決めるべきだという内容の授権もあり得るのですから)。実際、現時点の日本の憲法学の通説を体現していると思われる、東京大学の長谷部恭男さんも、ブリティッシュ・コロンビア大学の松井茂記さんも、そして、おそらく、伊藤正巳先生も佐藤幸治先生も、原則、①憲法優位説+②国際法優位説を採っていると解されるのですから。


そして、これまた繰り返しになりますが、①の意味の「国際法と国内法の優劣関係」の吟味検討に際して、現在の憲法論・国際法論・法哲学の議論では、「憲法」「条約」「法律」という言葉で、一般的にそれらの間の優劣関係・授権関係を考えるのではなく、「憲法」「条約」「法律」という言葉が指し示す事柄各々の内部に、更に、規範のグループ階層を設け(★)、ことほど左様に、謂わば場合分けをした上で「条約と国内法の優劣関係」を考えているのです(例えば、「Aタイプの条約」>「Aタイプの憲法規範」>「Bタイプの条約」>「Bタイプの憲法規範」>「Aタイプの法律」>「Cタイプの条約」>「Bタイプの法律」>・・・、の如くにね)、為念。


★憲法が包摂する諸憲法規範の分類
この憲法規範のグループ分けは(就中、憲法典が規定する、表現の自由とか国民の公務員選定権、あるいは、生牛肉料理をお客に出す営業の自由等々、諸々の規範のグループ分けは)、例えば、ハーバマスの「憲法愛国主義」やドゥオーキンの司法積極主義擁護論にその滑稽さが炸裂している、リベラル派が行う基本的人権なるものや民主主義なるものに絶対の価値を置いた上でする、縁なき衆生にとっては根拠薄弱な分類論だけではありません。


あるいは、個別日本においては、宮澤俊義先生、それを継いだ芦部信喜さんが定式化した、正に、「世界遺産」よろしく日本にだけ存在する、よって、憲法基礎論におけるその根拠性が一層怪しい(元来、単なる規範論理的思考のための方法論的の前提であったはずの、)ハンス・ケルゼンの「根本規範」の概念を、国民主権・基本的人権・平和主義、あるいは、個人の尊厳という現行憲法典に内在するとされる、内容を具備した具体的な「基本理念」なるものに読み替える立場からのグループ分けだけを意味するものでもない。


加之、このグループ分けは、現行憲法典に含まれる諸規範を、カール・シュミットの憲法制定権力論の伝統的な、しかし、曲解かもしれなかった解釈を踏まえた「憲法-憲法律」に区別する立場からのグループ分けだけでもなく、それは、分析哲学からの法規範の言語分析と、現象学的な「憲法の概念論および憲法の事物の本性論」からの諸憲法規範の分類を含みます。


具体的には、所謂「アファーマティブアクション」を推進した1960年代の連邦最高裁判決を批判する現実の政治過程と並行して繰り広げられた、アメリカの憲法解釈方法論争、すなわち、1970年代後半から四半世紀続いた、原典主義と非原典主義(原意主義と非原意主義)の論争の坩堝の中で鍛えられた、J.H.イリーを代表とする現代アメリカのプロセス法学や、共同体の機能と価値を重視する同じくアメリカの現在の保守主義の憲法論はその良質な試みなの、鴨。


尚、アメリカ連邦最高裁判決が初めて、所謂「二重の基準論」を示唆したとされている「United States v. Carolene Products Co., 304 U.S. 144(1938)」の多数意見の脚注4でストーン首席裁判官が記した主張は、マイケルジョンの所説と親和的な「デモクラシーの価値とデモクラシーに奉仕する政治的表現の自由の価値」の絶対性の唱道とも読めると同時に、他方、現実の政治過程においては、人権よりも憲法よりも国家が優越する局面のあることを示唆したものとも読める。蓋し、憲法規範の分類とその分類の憲法基礎論における根拠の確定に関しては、保守主義の憲法論にとってもいまだにCarolene判決は参考になる。と、そう私は考えています。 

  

<続く>