神の心に叶えば嬉し、暗いこころも、晴れてくる。

金のためたら、慈善をする人という人は、ためるお金に限度がないから、なかなか慈善が出来がたい。

物がなければ力で、力がなければ言葉でもいい、人を慰め、人の力になってやれ。

情けは人のためならず、慈善をすれば心が明るくなって、まず自分が救われる。
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今日の朝に参拝に行き、神の教えに伝わる大事な言葉です。

私自身、聖書にその意味が記されているとおり、そのマナというパンを食すようになり健康を回復している事実があります。

それの意味合いに、パンを得る手立てがないとあり、実際のことを申せば、その言葉を語るがために、己の道を捨て去りとあるので、大変なことですが無職の意味を背負っております。

ただ、履歴書が帰ってくるだけでなく、その不採用の期間に努力を繰り返して法律を学んで己の立場をよく考えた時間があるのも真のところです。

お金はとてもではないですが、ためる余裕さえもありません。

神は聖書でこう言われております。

1:27それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、

1:28有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

1:29それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。

※コリントの第一の手紙でこう言われています。

実際に降りてくる者の、本当の意味を背負う証明の言葉なのです。

私腹を肥やし、聖書の言葉を利用して金銀をため込んでも、それは本当の意味ではありません。

13:54汝己の道を棄てわが道とわが律法とを究めんと努めたり。
13:55汝は汝の生涯を智慧のうちに送り、又知識を汝の母と呼べり。

※エズラ第2では、こう記されております。

その人物は、己の立場を捨て去り、神の道(聖書にしるされている指定された道)、そして神の律法を極めようとして努力を繰り返したという意味合いになります。

神の律法を守り、私がその意味に喜びを感じた事実があります。

心臓の難病指定でしたが、それの病や、合併症だった喘息が、回復して体の健康のだいご味を悟ることになっているのは事実であります。

ゆえに人々の、神の律法を守り、健康を回復する奥義を知ってもらいたいというのが本音です。

神が言われていますが、律法を守らないほうが、その神の掟にそむく意味になるので、これに従わない者は主がその言葉で罰するといわれていることです。

守れば恩恵があり、病を回復して喜ぶのは人だと、私は心より認めるのです。

イザヤ書ではこう言われています。

33:22主はわれわれのさばき主、
主はわれわれのつかさ、
主はわれわれの王であって、われわれを救われる。
33:23あなたの船綱は解けて、
帆柱のもとを結びかためることができず、
帆を張ることもできない。
その時多くの獲物とぶんどり品は分けられ、
足なえまでも獲物を取る。
33:24そこに住む者のうちには、
「わたしは病気だ」と言う者はなく、
そこに住む民はその罪がゆるされる。

※守らないがために命を落としている人間があるからに、厳守すれば主は喜ばれ、病を取り去ることを確約されます。

65:20わずか数日で死ぬみどりごと、
おのが命の日を満たさない老人とは、
もはやその中にいない。
百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、
百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる。
65:21彼らは家を建てて、それに住み、
ぶどう畑を作って、その実を食べる。
65:22彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、
彼らが植えるものは、ほかの人が食べない。
わが民の命は、木の命のようになり、
わが選んだ者は、
その手のわざをながく楽しむからである。

こう言われているのです。