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静夜思

牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷

静夜思(せいやし)

牀前(しょうぜん) 月光(げっこう)を看(み)る
疑(うたが)ふらくは 是(こ)れ 地上(ちじょう)の霜(しも)
頭(かうべ)を挙(あ)げて 山月(さんげつ)を望(のぞ)み
頭(かうべ)を低(た)れて 故郷(こきょう)を思(おも)ふ

李白の作品中での逸品と評されている詩だが、山田勝美氏『中国名詩鑑賞辞典』によれば、この題名は字の如く静かな秋の夜の思いの意だが、これは楽府題で、秋のセレナーデといったところだ。


意。ベッドの前まで射し込んでいる月光を見て、(思わず窓辺まで歩み寄り、庭を眺めると)おや地上一面にもう霜がおりたのか、と思われるほど(月光に白く輝いている)。(そこでその正体はと)頭をあげて山の端にかかっている月を眺め、(今宵、やはりこの月を眺めているであろう)故郷の人々の上に思いを馳せ、いつか頭を垂れて望郷の念にかられている自分だ。


就寝前に偶然目に触れた月光をたよりとし、極めて自然に句が運ばれ、最後に耐え難い望郷の情にまで一気に情感を盛り上げている。転・結の「挙頭」「低頭」の対句が効果的で、月を媒体として李白の感慨は無限に広がっただろうと解説にある。大江千里の有名な和歌に「月見れば、ちぢに物こそ悲しけれ、わが身一つの秋にはあらねど」は望郷の歌では無いが月を見て感傷に耽る点は同じだろう。


言葉運びの余韻が実に美しく見事ですんなりと情景が眼前に広がり、恰かもその場に居合わせ、実際に射し込む月光を見ているかのようで、後半の心地良いリズムを持った対句に情感が一気に溢れ、前半で描いた月の光がいっそうの効果を持って詩全体を無駄なくひとつにまとめ上げている。この詩に触れる度、然り気無いがこれ以上完璧な表現と構成は無いといつでも感じる。



幾つかの居住場所のひとつの住まいで昨夜、色々な陶磁器を収納した棚を並べただけの部屋で、その棚のひとつから、白磁の大壺を取り出して、部屋の中央のテーブルに乗せて、椅子に腰掛け、ゆっくりと眺めた。
テーブルは部屋全体に収納した様々な壺や皿や茶碗などをゆっくり鑑賞するために設けたものだ。
月を彷彿するその白磁は見る時々によって放つ光沢や手に伝わる感触が異なって感じる。
高麗中期の李朝と鑑定されている大壺だがその通りなら十二世紀頃製作されていることになる。年代の真偽は定かでは無いが李朝であることには間違いない。様々な白磁があり、茶碗などもとても手に馴染み、点てた抹茶を頂く際にはこれ以上掌に馴染む焼き物は無いと感じる。他に年代の古い青磁などもたくさん収納しているが、焼き物は若いものより年代を遡ったものが格段に気持ちを惹き付けてくるように感じる。
壺や皿や茶碗などのいわゆる骨董を納めた部屋で暫し白磁の大壺を眺め、時に手に触れて過ごした。

部屋には天窓がある。

その天窓に光源を放つ月がこちらを見下ろしていた。

僅かに欠け始めている円い月。そして、テーブルには李朝白磁が静かに鎮座している。そのどちらも美しい。

ふと李白の「静夜思」詩が浮かぶ。

時間はきわめて緩慢に過ぎて行く。

天窓とテーブルと脳裡と、三つの月を今、堪能している。こんな贅沢なひとときは他に無いと思った。



saturday  morning白湯を飲みつつ空を眺める。

本日も。特に何も無く。