※長文のため、訂正箇所や一部修正・加筆を随時しています。


法隆寺・聖徳太子。

その本当の歴史を知る者はあまりいません。


日本書紀から脱却し、当時の飛鳥時代を回顧し、また霊的な観点もプラスし、新しい視点から真実を探るような

挑戦をしたいと思います。


長いけど、読みにくいけど

是非、最後までおつきあい下さい。



◯序


法隆寺・・・奈良県生駒郡斑鳩にある聖徳宗の総本山の古代寺院。別名・斑鳩(いかるが)寺。

601年、聖徳太子は飛鳥からこの斑鳩の地に移ることを決意し、宮(当時は斑鳩宮と呼ばれた)の建造に着手、しばらくして移り住んだといいます。


遺跡発掘調査により

斑鳩宮の敷地の西隣に若草伽藍という寺院が存在していました。

ちょっと傾いているのが、ポイントです。


この若草伽藍が
今の法隆寺の前身です。

今の場所にある法隆寺西院伽藍(塔がある場所)は
後に建てられたものであり(再建・非再建論争)

日本書紀に
670年に法隆寺が全焼したという記事がありますが
火災があったのは初期寺院の、この若草伽藍であったものと思われます。

若草伽藍は四天王寺式伽藍配置と呼ばれ、その様式は古く、大阪の四天王寺の伽藍配置を元にしています
(四天王寺は593年建立の最古の寺院)
 (仏像愛好倶楽部より参照)

四天王寺伽藍は別名・『百済式伽藍』といい
当時の朝鮮半島の国・百済に多く造られた様式が
日本に伝えられました

ここで重要なのは、百済という朝鮮半島の国が
この時代にとても影響を与えていたことです。

日本書紀は対外国用に日本が作った書物です。
日本の威信、日本らしさを全面にプッシュしたこの書には、あまり半島の影響を出したくありません。

飛鳥時代はこの百済の文化の影響が濃く
聖徳太子が仏教を進めていたのも、この百済国からの影響からでした。
⬆️仏教伝来

聖徳太子の祖父である欽明天皇(きんめいてんのう)の時代に仏教は百済よりすでに伝来し、太子の父である用明天皇(ようめいてんのう)も仏教を重んじ公認していました。
そして聖徳太子が深く広めた、といえます。


ここからはあまり知られていない歴史を
古代出雲に伝わる富家の伝承を元にして見ていきたいと思います。この伝承がなければ、真実にはたどり着けません。

そのために必要な事は
『記紀という歴史書からの脱却』です。

日本書紀は時の権力者・藤原不比等らによって
巧妙に歴史を変えており、彼の手によって蘇我氏や中臣氏の歴史も書き換えられています。

これから記載する出雲の伝承は一般的な話とは違うので
違和感を感じるかと思います。

しかしながら、丁寧に見ていていくと
この口伝こそが、既存歴史を全て引っくり返します。
それほど強力な口伝です。
なので、王道解釈の歴史学者から陰謀扱いをされるわけです。

記紀を疑わず、そのまま鵜呑みにしている思考の研究者たちには理解できないし、彼らは永遠に真実の歴史にたどり着かないでしょう。

柔軟な思考で
もう一歩踏み込んだ違った観点から見る事が出来るかどうか。
それが終わらない論争の理由です。

まず基本的に天皇という言葉ですが、これが歴代の天皇すべてに名付けられたのは後の天武天皇の時代より後世の後付けです。

ただ、天皇という言葉は古代中国においては最高神であり神格化された北極星(天皇大帝)を指す言葉として、すでにあったので、渡来人から伝わっていたといいます。

しかし、聖徳太子という名や厩戸王などの名はこの伝承には存在していません。

ここからは
出雲伝承の富家の伝承を交えていきます。


◯斑鳩宮と2つの仏像

斑鳩宮とは
今の東院伽藍、やや北西あたりに
かつてあった宮であり、聖徳太子(以下太子)が
完成させたといわれています。

その建設には太子の妻の一人
膳部君(かしわでべぎみ)が豪族の膳部家の出身であることから、(その資金によって)膳部臣家が協力したと言われています。
斑鳩宮の大殿浴室の横に
四角の堂(夢堂、今の夢殿ではない)を建てました。

そして太子は
大阪の難波にあった寺を壊した時に金堂内にあった観音像に大変興味を示し、それを壊さずに保管しました。

そしてその観音像を斑鳩の斑鳩宮・四角の夢堂に移し
それを布で覆いました。
布で覆った理由は奪いとった感じがしたからだといいます
(壊して奪ったような罪悪感からか?)

この観音像こそが現代で有名な
百済(くだら)観音』であるといいます。

今の公式の発表では作者不明とされていますが
伝承によれば制作者は
司馬(鞍作)多須那という人物。

そう、鞍作(くらつくり)と言えば
飛鳥時代の渡来系仏師である鞍作止利(くらつくりのとり)が思い浮かびますが、彼の父親こそが鞍作多須那です。
百済観音(くだらかんのん)像。国宝。

現在は法隆寺宝物館にて見ることができます。
日本には色んな仏像がありますが、この百済観音ほど美しく不思議な仏像はあまりありません。

夢殿。

始めは夢堂(特に名はなかったとも)→八角円堂・正堂→夢殿(上宮法院夢殿)と変遷していきます。
夢殿(ゆめどの)と呼ばれたのは、平安時代以降です。

百済観音を作った司馬(鞍作)多須那は
太子が大阪難波の寺を取り壊した事に
大変憤慨していたそうです。
(おそらく鞍作一族は大阪難波にあった寺と深く関わっていたと思われる)

この事を息子の鞍作止利は父から聞いていたので
当初は太子に対しては、憎しみがあったようです。

しかし
後に百済観音が、実は太子によってひっそりと斑鳩の夢堂に安置されていたのを知り、大変喜んだそうです。
さらに布まで巻いてくれていたと思ったそうで
感謝の意として一体の仏像を制作したといいます。

それが現在の、夢殿に安置する『救世観世音菩薩像』
救世観世音菩薩像 夢殿

色々と噂がある像ですが、伝承によれば救世観音像は

太子に似せて造られたといい、(父が作った)百済観音を見て

造ったから、唇の形などが百済観音に似てしまったそうです(つまり聖徳太子の顔はこんな面長顔だった!?)


太子が亡くなった後、ある人物は

この菩薩像が太子にそっくりなために、心苦しくなり布で覆い、夢堂の中に大きな厨子を造り、その中に像を収めました。それは後世まで秘仏とされていきました。


そのおかげで損傷が少なく

永く保存される結果となりました。

そして千年以上時が経って

時は明治時代に、アーネスト・フェノロサらによって

法隆寺の関係者を説得して、解禁し、世間に公開しました。


四天王寺と荒墓


大阪難波周辺(ものづくりとことだまの国より参照)

大阪の天王寺区にある四天王寺の正式名は
荒陵山(あらはかやま)四天王寺です。

四天王寺は今の場所に建てられる前に
物部守屋の別宅があった森ノ宮(今の中央区と天王寺区)に
太子は元四天王寺を建てます。

しかし仏教を快く思わなかった推古天皇の指示により、そこから荒墓の地に移り、元四天王寺跡に用明天皇を祀る宮、鵲森宮(森之宮神社)を建てたといいます。

難波の地には百済から帰国し死亡した日羅の古墳があったが荒れていて、荒墓という地名になっていた。

日羅(百済国に仕えた日本人、百済官僚)

その近くに百済式の伽藍が建っていた(百済観音があった寺)と

平安時代の僧の阿闍梨・皇円(あじゃり・こうえん)の著『扶桑略記』に書かれています。


当時の四天王寺周辺
北⬆️
南⬇️(いにしえの都より参照、承徳九年(1098年)平安後期 堀河天皇地図)

石山は今の大阪城
生玉社は今の生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)。
玉造稲荷は今の玉造稲荷神社。
高津ノ宮は今の高津宮(こうづぐう)。
熊野一ノ王子は現在の堀越神社境内にある熊野第一王子之宮。

堀越神社
高津宮
(両社とも公式ホームページより参照)


法隆寺と仏像
現在の法隆寺を見てみたいと思います
中門
法隆寺は西院伽藍と東院伽藍に別れ
西院伽藍境内の配置は、法隆寺式伽藍配置と呼びます。


伝承によると、太子の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)が、20度傾いていた斑鳩宮に同じ角度で併設し
父を弔うために伽藍を建設したのが、若草伽藍です。

伽藍が四天王寺式伽藍であるのは
父が荒墓の四天王寺を建立した際と同じ伽藍様式にしたかったからです。
しかし670年頃に火災に合い(寺の抗争で)焼失しました。
放火されて消失し、多くの僧侶達が各地に散りました。

火災のとき僧侶たちが急いで橘寺(明日香)に仏像を移したが仏像が多かったので、仏像避難の場所が足りませんでした。

若草伽藍は豪族・膳部家(太子の妻家系)が資金を援助していました。
そして被災の後、膳部家は斑鳩宮の北に、法輪寺を創立し

山背大兄を祀りました
(百済開師、円明師、下氷君(膳氏の部下)3人が寺を造った)

法輪寺本尊の『薬師如来座像』。
山背大兄をモデルに造られたといいます。

その法輪寺に、再建のため焼け残りの建築の飾り部分や設計図を保存しました。
それらが残り、法隆寺建立の時に利用されたといいます。

法輪寺は再建する際の法隆寺の伽藍配置に影響を与えました。その影響で法隆寺式伽藍配置となり、後の世に再建されたのが今の法隆寺です。

法隆寺西院伽藍

金堂内
釈迦三尊像』→ 太子の息子・ 山背大兄王が仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)に造らせたといいます。
中央尊像の顔は太子がモデルだそうです
薬師如来像』→鞍作止利の作。以前に造り上げ坂田尼寺に鎮座させていたのを斑鳩寺へ移したといいます。
太子の母である皇后・間人姫(穴穂部間人)がモデルだそうです。

移した理由は、釈迦三尊像の中尊像の表情が暗く見えたので、口角が上がり明るい顔の薬師如来像を隣に置いてあげたかったからだといいます。

坂田尼寺とはかつて明日香村坂田にあった寺で
坂田寺・金剛寺ともいいます。鞍作一族の氏寺。
継体天皇の時代に
止利の祖父である鞍作(司馬)達止がつくった草堂に由来し、止利の父である鞍作(司馬)多須那用明天皇の病気平癒を祈るため出家修道した寺です。
日本最古の尼寺と呼ばれているのは鞍作(司馬)達止の娘であり、日本初の尼僧と言われる善信尼(ぜんしんに)と関係があるからだと考えられます。
坂田廃寺跡

尾治大王

仏師・鞍作止利はこの時代の大王と密接な関係がありました。その大王(おおきみ)が『尾治皇子(大王)』です。

尾治大王は推古女帝 (天皇)と敏達天皇の子であり、重要な人物でありながらも表舞台からことごとく消された人物です。

推古女帝は始めは息子の竹田皇子を寵愛し大王に就かせようとしていたそうですが、権力闘争で暗殺されたといい、次の跡継ぎに尾治皇子をプッシュしました。
その結果、604年尾治皇子は大王に就任しました。
(現在の雷丘周辺の小墾田宮(跡)が政治の中心)
(飛鳥を歩く、より参照)

推古の両親は稲目(蘇我稲目)の娘の堅塩姫と欽明天皇です。稲目は尾張国(愛知県)にも領地をもっていたので、孫である皇子は尾治(尾張)皇子と名付けられました。
推古女帝

尾治大王は後継ぎがおらず(病弱だったとも)
太子の息子の山背大兄王に、後継ぎを定めたといいます

ちなみに彼は中国の歴史書にも登場しています。
煬帝(隋の二代目皇帝)を激怒させた倭王・多利思比孤(タリシヒコ)なる人が隋書に記されており、それは尾治大王の名前・尾治垂彦尊(オバリタラシヒコ)だといいます。
隋書には号は阿輩雞彌(あはきみ)とあり、大王(オオキミ)がオオキミ(アハキミ)→ 阿輩雞彌と記されたといいます

彼は政治面で特別目立った働きをしていないと歴史上で一般的に解釈されていますが、実は彼は冠位十二階と十七条憲法に深く関わった人物だと伝承は伝えます。

尾治大王は鞍作止利に飛鳥大仏を法興寺(飛鳥寺)で作らせ、高階級の冠位を授けたそうで、止利は尾治大王には恩義を感じていたそうです。

✂️ちょっとブレイク~
~個人的感想。金堂は中の空気感は飛鳥時代にタイムスリップしたかのような気になります。
特に上記2体の仏像と四天王像、鞍作止利作の仏像は他の飛鳥・白鳳仏とは一線を画します(ここ重要)
渡来人の技術・色が仏像に強く反映されていて原始的な仏教を感じます。
表現が難しくて、生々しく生きている感じがするという言葉が合うのかもしれません。宝物館入り口付近にもそのような仏像があります。その生々しさが人によっては恐いと思うかもしれませんが~

◯出雲と2人の王
法隆寺がある斑鳩は元々、先祖が出雲王家に繋がる膳部家が住んでいました。
辺りにある富雄川はその名のとおり富の川、富家にちなみます。さらに法隆寺の北に法輪寺がありますが、この法輪寺も別名・三井寺と呼ばれ、近くには三井の井戸、昔は富の井と呼ばれていた井戸があります。つまり出雲の末裔たちが住んでいた土地に太子は斑鳩宮を建てたことになります


このように細かな様子が出雲の伝承に伝わっています。
蘇我氏にまつわる系図が、出雲の伝承とは大きく違います。
上の方に系図があるかと思いますが、日本書紀では太子と刀自古郎女(とじこのいらつめ)の間の子に財王・日置王が記されていますが、これは誤りで正しくは菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)の息子だと伝わります。
つまり蘇我氏に繋がる刀自古郎女の子を改ざんしました。

この太子と貝蛸皇女の子である
兄の財王と弟の日置王は皇位継承問題の激化を避けるため、推古天皇より出雲国に派遣されました。

推古天皇は娘の貝蛸皇女に額田部と日奉部を与えていて、貝蛸皇女は財王に額田部の領地を、日置王に日奉部の領地を与えていました。

出雲に派遣された兄の財王は出雲旧王家の富家に出入りしており、財王には兄弟が多かったから彼等から都の政治情勢や事件は詳しく通知されていたといいます

弟の日置王は祖母の推古女帝の希望に基づき
出雲にて日御碕神社を建てました。

大阪の四天王寺の鳥居が西を向いているのは推古女帝、つまり西の夕日を拝む額田家の信仰に基づくものであり、日御碕神社が日沈みの宮と呼ばれたり『日の本の夜を守れと言われるのはこういった理由からです。
日御碕神社(島根県)

二人は島根県で生涯を終えています。
つまり、この二人を通じて飛鳥の細かな状況が出雲へ伝わり伝承になったという事です。


聖徳太子とは

太子は摂政として推古女帝をサポートし政治介入をしていましたが、そこまで偉人めいた事を成していたわけではないようです。
むしろ仏教に篤く奉じていたようで、確かに排仏派の物部守屋の討伐に参加したりはしているようですが、天皇(大王)にはなっておらず宗教家としての色が強いようです。

太子は622年、49歳で亡くなりました。死因は不明で様々な説があり、一般的には疫病や暗殺説といわれています
出雲の伝承によれば、はっきりとした死因と犯人が述べられています。
太子と妃・膳部君が622年ほぼ同時に亡くなったとされ、前年に母の間人皇太后が亡くなっており同時に三人が亡くなっています。
犯人に関してはここではあえて触れませんが、興味のある方は自己でお調べ下さい、わりと最近はネットでも情報が集めれます。

出雲の伝承から読み解くと
『聖徳太子』という人物はおらず

◯仏教に深く篤かった父・用明大王
◯斑鳩寺・中宮寺など重要寺を立てた息子の山背大兄王
◯冠位十二階・十七条憲法に深く関わった尾治大王

それらの話、エピソードに

政治家でありながら
仏教信仰を進めた太子(上宮太子・上宮法王)が合わさり

1人の人物の偉業となり、後に聖人・偉人と化したのが
『聖徳太子』である、といえます。

霊的観点からも見ておきます。

神仏研究家・チャネラー桜井識子、聖徳太子と推古天皇との霊視・チャネリングより。
太子さんは立派なお寺を建てたいという願望があり、自分の足で建てるのにふさわしい土地を探して各地を歩きまわっています~斑鳩の地には渡来人も多く、大陸から来たばかりの人もいたため本場の話を聞くことが出来ました~斑鳩は百済の言葉だけど、当時すでに古語だったと言います。意味は息を吹き返す聖なる地、滅びても何度も蘇る地、らしいです。飛鳥時代には霊能力を持った人がそこそこ普通に多かったそうです、太子さんにもその能力がありました。~現代の仏教と飛鳥時代の仏教は仏様が若干違うというのです。仏様全員のフットワークが軽く歩いて動いて仏様の方から救いにいくのです~太子さんが根づかせようとした仏教は大陸の仏教です~推古天皇によると、実務能力は天才的でアイデアが豊富、政務に抜群の能力を発揮し、職務に忠実だという真面目な性格でもありました~私が聖徳太子さんの取材で来ましたと言うと、推古天皇は『名前が違う』みたいなことを言ってました~太子さんは野心家ではありません、地位や権力に全く興味がない~陥れようと画作する人や陰で足を引っ張ろうとする人、~どろどろとした権力闘争の渦に巻き込まれることは避けられなかった~冠位十二階や十七条憲法は『私がひとりで考えたのではない』と。太子さんは聖徳太子という人物は実在しない、と言いました。『英雄ではないが精一杯生きた』と。

信憑性という意味ではなんら証拠がないチャネラーですが、彼女の具体的な霊視話は一定の説得力があると思っています。
上記エピソードにしても出雲伝承と被っており、また
斑鳩いかるが=百済語で息を吹き返す聖なる地、滅びても何度も蘇る地を意味することや、聖徳太子が霊能力に長けていたという情報はどこにもない情報です。


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結論として
聖徳太子とは現実的天才肌と霊性を兼ね備えた実在の人物であり、その時代を生きた1人であったということです。


最後に
聖徳太子といえば、剣。

七星剣・・中国の道教思想に基づき北斗七星が刻まれている国家鎮護や破邪滅敵を目的にして作られた刀剣。儀式などに用いられた。古代中国(紀元前5世紀より前)よりその名は見える
⬆️大阪・四天王寺の七星剣太子の佩刀と言われる

⬆️法隆寺の銅七星剣太子が物部守屋討伐に用いたとも伝えられる、飛鳥時代の作。

呉竹鞘御杖刀(くれたけのさやのごじょうとう)
正倉院所蔵の北斗七星が刻まれた刀。杖に仕込まれている。

大刀契(だいとけい)の七星剣
三種の神器につぐ宝剣で、平安時代において大部分が内裏の火災で焼失、後に安倍晴明らによって復元したが南北朝時代ごろに再び失う
⬆️丙子椒林剣(へいししょうりんけん)四天王寺所蔵の七世紀頃作、太子の佩刀と言われる。