こんにちは! こうの史代です。
今日は描かなくてもいいかな…と思ったんだよ。
本当に雲一つなく、鳥一羽、虫一匹飛んでいない秋晴れの日曜なのですよ。
でも、「無い」から描かない、ということは、無視していい、と結局同等になってしまい、となると、何年か後にこのブログやこのスケッチブックを見返す時には、こういう秋晴れの日は「無かった」ことになっちゃうんだな。
7月に、「比叡の光」というテレビ番組(KBS京都 制作)に呼んでいただいて、比叡山に行く機会に恵まれました。
そのちょっと前から「般若心経」に興味があったので、
休憩時間に、延暦寺のお坊さんに尋ねてみました。
『 「色即是空(しきそくぜくう)」とは、「有はすなわち無である」ということだ、と本に書いてありました。
「色」が「形有るもの」というのはわかるんですが、「空」がさす「無であること」とは何ですか?
無と有はさすがに真逆なので、同じであるといわれても納得いかないんですが…。
そこで何冊か本を読んで考えました。
たとえばここに、あなたとわたしがいて話している、この現象が「色(しき)」として、
「空」は、今ここには形はないけれど、それぞれを形成している食べ物や着るものの来し方、影響を受けた人や物との関わり、つながる先祖、 などのこと、ですか? 』
するとお坊さんは、
『 いいえ、それらはみんな「色」です。
「空」とは無、つまり「0(ゼロ)」のことなのです。』
とおっしゃって、人差し指と親指で輪を作って、その輪っかから目をのぞかせて微笑みました。
確かに。
般若心経もゼロの概念も、インドで生まれました。
ゼロを発見したことは、数学の大きな発展につながったといわれます。
ゼロとはつまり、無を表記する、ということなのだろうと思います。
数学以外の、我々の生活でも、ゼロつまり無を有と同等に表記することの発見は、さまざまな利益をもたらしたのでしょう。
その発見を著わしているのが、この般若心経だというのだろうか。
では、それがなかった頃は、どう不便だったのだろう。
いや、あるいは、わたし達のほとんどはこの般若心経を理解できていないのだから、実はわたし達は今もそれは出来ていなくて、不便だけど自覚していないだけなのか。
そういえば「ぼおるぺん古事記」を描いていた頃、
「麗」であり「醜」である神がいたり、ヒラサカという平たいのか坂なのかわからない坂道があったり、海なのに山の神がいたり、対照的な事象がなぜか同居している表記が多くて不可解だったな。それで、これは…「そこに注目すべきもの」ということを表しているのだ、と考えることにしたんだったな。例えば「麗しいのに醜男」のオホクニヌシは、「見た目の印象の強いお方」というふうに。だって今でもアイドルなんかはみんなかわいいのに「ブス」呼ばわりされる回数は我々一般人よりはるかに多いじゃん!?
そう考えると…般若心経のこの部分は「有るか」「無いか」というより「有る無し」に注目すべきなのかなあ。
…とぐるぐる考えていると、
「そういえば、コンピューター言語は1と0の二進法ですよね…」
と番組のディレクターさんが呟きました。
そして、一緒に輪っかからのぞくお坊さんの目を見ていた塩見祐子アナウンサーが一言
「…なんか余計わかんなくなっちゃった!」
そこで一同、
「それな。」
と深くうなずいたのでした。
今日この何もない空を描いて、この時のことがなんとなく判りかけたような…そうでもないような…。
うん。
ごめんなさい。
…なんか余計わかんなくなっちゃったな!