今の毎日だって、

 理不尽なことはあるし、

 誰もが楽して
生きているわけではない。 


 それでも、

 栓をひねれば水が出て、

 電気もつけばエアコンも効くし、

 店には食べるものが
あふれている。 


 命に関わるような労働を
強制されたり、

 その環境から逃げることもできないような、

 そんな状況はゼロではないかも 

しれないが、 

日常にあることはほぼない。


 この世界は、 

これまでに生きてきた人々が 

作り上げてくれたもの。


 彼らが味わってきた 

いくつもの苦難のひとつが、

 八重山諸島のひとつ、

 東洋のガラパゴスとの異名を持つ 

西表島にもある。 





 八重山諸島最大の島で、

 亜熱帯の楽園とも呼ばれ、 

深いジャングルを持つ

 独特の自然環境から 

訪れるファンも少なくない。 


 西表島は、1500万年前に隆起した 

大陸の一部と言われ、 

その西側に炭層があり、

 石炭が採れる。 


 室町時代頃から、

 西表島に石炭があることは 

ひそかに知られ、

 琉球王朝は石炭の存在を
隠し、

他所に漏らすことは国禁とした。


 この頃、ペリーが琉球に現れて

 彼らは燃料となる 

石炭を探していた。 


 しかし、明治初期に 

石垣島の平民が

 鹿児島の海運王に教えてしまう。


 国禁を破った者は、 

波照間島に流刑になった。


 十数年後、
三井物産が西表島で

 石炭の採掘を始めた。


 沖縄県内の囚人を始め、

 他府県で仕事を探していた者たちが、

 言葉巧みに集められた。


 南の島のジャングルの中の

 採掘作業。 


 九州や北海道の炭鉱と違い、

 西表島の炭層は30㌢ほどしか
なかった。

 (他は1メートル以上)


 つまり、掘るのが非常に
困難であり、

 薄い層に広がっているため、 

取り出すにもそれぞれが小さくて

 量を掘り出せない。


 しかし、西表島の石炭は
質が高く、

発熱量が多いために
重宝された。


 採掘が困難であることに加え、

 蔓延するマラリアに、 

坑夫たちは苦しめられた。


 三井物産の下で働いていた 

坑夫は180人中130人ほどが
マラリアに罹り、

 30人ほどが死亡、 

坑夫たちは福岡の三池炭鉱に移って 

事業は中止された。 


 その後、政商大倉氏、

 沖縄広運など様々な会社が 

請け負ったものの、
続かなかった。


 大正時代に琉球の炭鉱王が
引き継ぎ、

 さらに昭和に入って

 宇多良地区で新たな炭鉱が
見つかり、

 西表島の炭鉱事業は隆盛をむかえる。 


  宇多良地区では

 2000人近くの人々が暮らし、 

独身者や夫婦向けの納屋もたち、

 集会所に芝居小屋もあり、 

映画も見ることが出来た。 


 新聞では
マラリアも撲滅し、

 素晴らしい街となった
桃源郷、

とまで
紹介されたが、

その現実は
厳しいものであった。


 坑夫たちを集めた甘言とは、

 賃金は内地の1.5倍、 

暖かい土地で必要なものは 

すべて会社が用意してくれる。

 仕事も楽なもんだ。


 信じた彼らが到着したのは、

 孤島の中のジャングル。 


 船賃も、食費も、衣服費も、 

斡旋料も彼ら自身の借金に
なっていた。


 賃金は炭鉱切符と呼ばれる
金券で、

炭鉱の中の売店でしか
使えない。 


 戦時下にあって
増産体制がしかれ、

 ノルマを達成するまで 

腹ばいの姿勢での辛い 

採掘作業を強いられる。


 納屋、と言われる住居は

 納屋頭に仕切られ、 

生活の一切を管理される。 


 そして、撲滅などしていないマラリア。

 

 過酷な労働で健康を害しても、

 賃金が支払われないだけ。


 命がけで逃亡する坑夫は  後を絶たなかった。

 どうせ死ぬなら、
せめて逃げてみよう。


 しかし、ジャングルを抜けることは 

不可能に近く、

 川を下ればすぐに見つかり、 

島の住民にも恐れられていた
坑夫は、

通報される。 





 連れ戻された坑夫は 

 見せしめのリンチにあい、 

それがもとで死ぬこともあった。


 ごくまれに、逃げられた坑夫もいた。


 島に野菜を売りに来た船に、

 荷物のふりをして
乗せてもらったり、 

 近隣の漁師が助けてくれたことも
あった。

 

 それでも、ほとんどの坑夫は
逃げても

ジャングルで息絶える、 

 捕まってさらなる重労働に
耐える、 

過労で死ぬ、

 マラリアにかかる…。


 そんな西表島の炭鉱も、

 戦時色が濃くなるにつれて 

坑夫たちは戦地に連れて行かれ、

 沖縄近郊には

 英米の船が通るようになって 

石炭を運び出すことも
困難になり、

 敗戦とともにその歴史を終えた。 


 が、戦後統治したアメリカによって

 1960年代まで採掘は
行われた。


 生き残った元坑夫は、 

戦争に低賃金、いじめられ
苦しめられ、

亡くなっていった
多くの同僚たちを思うと、  今でも胸が締め付けられる、と
語って涙を流す。 


 日本の近代化に貢献した 

石炭採掘と関わった人々が、

 西表島にもいた。


 ここも、近代化産業遺跡群、


して認定されている。


 ほんの数十年前に 

西表島で採掘していた人々が 

いたことを知ったなら、

 楽園が楽園でいられる
今の風景が、 

さらに輝いて見えることだろう。