映画「幕末太陽伝」(1957年、日活)は、川島雄三監督の最高傑作とされている作品です。舞台は幕末、武士たちが開国だ、尊王攘夷だと叫んで世間が騒然としていた時代に、したたかに生きる庶民を描いたコメディです。「太陽伝」というのは、昭和30年ごろの流行語「太陽族」に由来しています。1955(昭和30)年に発表された石原慎太郎の小説「太陽の季節」から生まれた言葉です。既成の秩序を無視して無軌道な行動をする若者たちを意味しています。いつの時代でも、若者は無軌道なことをするものです。世の中を変えるのは「若者、バカ者、よそ者」と言われますが、いざ現れてみると、優秀な年寄りたちは身内から排除しようとします。小説「太陽の季節」が新人賞に値するかどうかでもめて、社会的にも称賛と非難が巻き起こり、新世代の若者に「太陽族」という名称がつけられました。当然、映画界でも問題になり、「幕末太陽伝」は幕末における太陽族の映画ということですから日活は製作に大反対だったようですが、映画ができてみれば、日活を代表する作品となりました。

 

 庶民はこれからの国をどうすべきかなんかに縁がなく、せいぜい世相を皮肉ることしかできない存在です。というわけで、この映画は当時の落語をもとに、品川宿の遊郭を舞台に起こるさまざまなできごとをテンポよく繋いだ作品です。いわゆる「グランド・ホテル形式」といわれるものです。「グランド・ホテル形式」という名称は、映画「グランド・ホテル」(1932年、アメリカ)が元になっており、そのホテルにさまざまな人が去来して、さまざまな人生の縮図を描きだすという作品のことです。特定の場所にさまざまな人が集まり、物語が展開していく群像映画です。通常の映画ですと、主役だけが個性をもって描かれますが、「グランド・ホテル形式」では、登場人物がそれぞれに個性をもっています。「以前に「駅馬車」(1939年、アメリカ)を観ましましたが、これは「動くグランド・ホテル形式」となります。

 

 「幕末太陽伝」が拝借した落語は、「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」「お見立て」です。映画の主人公は佐平次(フランキー堺)で、基本的な筋は「居残り佐平次」からの拝借です。「居残り」とは、当時の遊郭で代金を支払えない場合、身請け人(家族などの関係者)が代金を支払うまで、布団部屋などにその身柄を軟禁しておくというものです。映画の佐平次は、胸の病があり、もともと遊郭に拘束されて養生しようという魂胆があって居残りになったのです。しかしいつしか佐平次は遊郭の人気者になっていき、ついに困った店が金を与えて出ていってもらうという話です。ただこの落語のオチは現在ではわかりにくくて、いいオチがないようです。

 

 映画の舞台は、品川にあったという遊郭「相模屋」。そこの人気女郎は「おそめ(左幸子)」と「こはる(南田洋子)」です。女郎おそめは落語「品川心中」のヒロインです。遊郭の行事に必要な金ができず、下の者からバカにされるのが悔しくて、おそめは死ぬことを決断するのですが、一人で死ぬのは寂しいので、馴染みの客から道連れを選び、「貸本屋の金蔵」(映画では小沢昭一)に無理やり心中を承知させます。金蔵が桟橋から海にとびこんだところで金ができたと知らせが来て、おそめは死ぬのをやめて帰ってしまった。品川沖は遠浅だったので、金蔵は死なずに済み、おそめに仕返しをします。遊郭の主人としめしあわせ、金蔵が化けて出たといつわり、このままではとり殺されてしまうから、頭を丸めたほうがいいと主人がおそめに勧めます。おそめが髪を剃ったところに金蔵が現れ、悔しがるおそめに、「おまえが客をあんまり釣るから、魚籠に(比丘尼)されたんだ」とサゲます。

 

 かつて遊郭では、遊女の年季が明けたら客と結婚することを約束するという起請文をやりとりすることがはやりました。起請文をかたにその客から金を借りているわけですが、落語「三枚起請」では、悪い遊女が客三人を騙して金を用立ててもらい、それぞれに起請文を書き、それがバレて騒動になるという話です。そのとき遊女が居直って、「女郎はお客を騙すのが商売。騙される方がバカ。昔から、起請文に嘘を書くと、熊野のカラスが三羽死ぬというだろう。私は世界中のカラスをみんな殺してやりたいのさ」「カラスを殺してどうするんだ」「ゆっくり朝寝がしたい」と言った。「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」というのは高杉晋作(映画では石原裕次郎)が遊郭で作った都々逸で、それが落語のオチでした。

 

 映画の最後は、落語「お見立て」からの拝借です。「見立て」というのは、店に女郎を並べて客に品定めさせることです。吉原の女郎「喜瀬川」は田舎者の客杢兵衛に嫌気がさして、死んでしまったことにします。杢兵衛が墓にお参りしたいというので、店員が山谷の墓に連れていき、適当な墓を選んでお参りさせる。しかし違う墓だということがばれて、次々と墓を変えていくのですが、杢兵衛が怒って、いったいどれが本当の墓なんだと訊いた。すると店員が、ずらりと並んだなかからお好きなものを、と答えるというオチです。映画では喜瀬川を遊郭「相模屋」の遊女こはるに変えてあります。

 

 この映画には、川島雄三監督の体験が色濃く反映されています。川島は1938(昭和13)年ごろ松竹大船撮影所に採用され、助監督から監督になりました。その間ずっと、撮影所の前にあった松尾食堂に居候しておりました。部屋をただで間借りしていたばかりでなく、食事代も呑み代も、クリーニング代もすべてツケで借金が溜まりに溜まっていた。監督になってからは支払うようになったようですが、戦後に復活した日活に移籍する時、13万円の借金を踏み倒したようです。また川島監督は小児麻痺であまり健康ではなかった。戦後のある時、進駐軍の物資を売りに来た女性から、フランスの石鹸を現金で買ったことがあり、松尾食堂の看板娘は、現金があるなら借金を払ってよと思ったのだが、川島が「贅沢は素敵だ」(戦前の標語「贅沢は敵だ!」のもじり)と言ったので、娘はあきれてなにも言えなかったそうです。なんとなく佐平次を彷彿させるところがありました。

 

 川島監督は、映画づくりは生活のため、と割り切っていたので、名作小説から脚本を作り、なるべく低予算で手間を掛けずに撮り、会社の上層部には受けがよかったようですが、本当に撮りたい映画は細部にこだわり、その点では上層部と揉めていました。「幕末太陽伝」は落語がベースですが、オリジナルな作品ですから、かなりこだわった作品のようです。映画のスタッフや出演者の紹介の時、現在(といっても昭和32年)の北品川辺りが映っており、映画が始まると、遊郭「相模屋」の行灯に変わります。そして映画の最後、佐平次が杢兵衛を墓に案内するわけですが、嘘がバレ、「おまえはさっきから妙に悪い咳をしている、おまえは地獄に落ちるぞ」と言われた時、佐平次は、「地獄も極楽もあるもんか、おれはまだまだ生きるんでエ!」と言って叫びながら海沿いの街道を逃げていきます。というわけで、落語をもとに作った映画にしてはオチがありません。オチをつけるなら、冒頭にあった現代の品川にもどらなければなりません。

 

 しかし実は、もともとはオチがありました。佐平次が逃げていくと、幕末のセットから抜け出し、現代の品川を駆けていき、映画の登場人物が現代の姿でたたずみ、佐平次だけがチョンマゲ姿で走り去るというものでした。ところがこのオチがあまりに斬新すぎるというのでスタッフに猛反対され、主演のフランキー堺も意味がわからないと反対にまわり、ボツになってしまったそうです。ただこのラストシーンのアイデアはやっぱりおもしろいということで、後年にさまざまな映画人が試みております。「蒲田行進曲」(1982年、松竹、深作欣二監督)では、ラストの病院のシーンが一転して撮影所のセットだということが明かされておりました。あれは「幕末太陽伝」へのオマージュだったのですね。