江戸時代に「田楽茶屋」が繁盛した理由とは? | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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現代で「田楽」というと、具がこんにゃくだったり里芋だっ

たりもしますが、江戸時代は「田楽」というと具が豆腐のみ

だったそうです。

 

豆腐を長方形に切って竹串を刺し、味噌を塗って焼いた料理

を「田楽」と呼んでいました。

 

名前の由来ですが、田植えの祭りに踊った「田楽舞」から来

ているということです。田楽法師が1本足の竹馬のような高

足に乗って踊る姿が串に刺した豆腐を連想させるため、実際

にそういう串刺し豆腐の料理を考案したところ、江戸の名物

料理にまで発展したそうです。

 

1803(享和3)年に刊行された『後は昔物語』によると

墨田川畔の眞崎稲荷社周辺に田楽茶屋が多くあって、どれも

繁盛していたと書かれております。甲子屋、川口屋、玉屋、

いね屋、仙台屋、きり屋といった名前が、紹介されています。

 

繁盛した理由ですが、参拝客が多く寄ったということもあり

ます。ただそれ以上に、吉原の遊郭が立地的に近かったため

にこの辺の田楽茶屋で腹ごしらえをしてから繰り出す客が多

かったことが原因とされています。

 

「田楽で帰るが本の信者なり」

という句がありますが、参詣のついでに田楽を食べてそのま

ま帰る人こそが本当の信者で参詣客だという意味です。ただ

し実際にはそういう人が少なかったことへの皮肉とされてい

ます。