吉良上野介に直接手を下した浪士のすごい遺伝子 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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豊臣秀吉の朝鮮出兵は、失敗に終わりましたが、全く歯が立たずの惨敗

というわけではなく、一応善戦はしたようです。そのため、攻撃は中国の明

にまで及び、捕虜として日本に連れ帰った明の兵士もいたくらいです。


その結果、すごい遺伝子が日本に輸入されることとなりました。秀吉軍に

捕えられて日本に連行された明の兵士の中に、孟二寛(もうにかん)という

男がおりました。この「孟」という字で、何か思い浮かべることはないですか。


中国には、孟子という偉大な思想家がおります。そしてそう、この孟二寛は、

孟子の末裔だったのです。


彼は連行された後、日本に帰化し、渡辺姓を名乗りながら、毛利家に仕え

ます。彼は、日本でそのまま子宝にも恵まれます。


その彼の孫に、武林唯七という男がおります。武林という姓は、祖父の孟二

寛が中国の杭州武林の出身だったため武林を訓読みにして武林(たけばや

し)を名乗ったのです。渡辺姓は、兄が継いでいます。


ところでこの武林唯七という名前、熱心な忠臣蔵のファンの方なら、見覚え

のある名前かと思います。この人が、赤穂藩で浅野家に仕えたとなれば、も

う決まり。そうです。赤穂浪士の一員として吉良邸に討ち入り、最後吉良

上野介を直接斬り捨てた人物として知られる人です。


中国の孟子の末裔が、日本で赤穂浪士の一員になっていた。しかも最後は

仇敵に直接手を下したのですから、忠臣蔵の中でもスターの一人なのです。

あまり忠臣蔵が孟子と結びつけて語られることがないので、マニアックな話題

のようですが。


討ち入り後、武林唯七は毛利家にいったん預けられ、1703年2月4日に幕府

の命で切腹をしています。しかし、孟子の遺伝子は、その後も日本に残ってい

るはずです。