青梅の紅葉と庭園 ~日向和田・臨川庭園・津雲邸~ | 十姉妹日和

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つれづれに書いた日記のようなものです。

東京の青梅市は江戸時代から成木街道(青梅街道)の起点として栄えた宿場町です。


この青梅という地名は、伝説によればその昔平将門が反乱を起こす際、この土地の金剛寺という寺に一本の梅の木を植え「もし私の望みが成就するのであれば実をつけよ(または成就するならこの土地に根付け)」といったところ、この木には青いまま地面に落ちる不思議な梅の実がなった、ということからついたともいわれています。



青梅 金剛寺の梅

金剛寺 将門誓いの梅


青梅はこうした伝説から現代でも「梅」に縁のある土地で、関東随一といわれる「吉野梅郷」もここにあったのですが、残念ながら樹木の病気「プラムポックスウイルス」のため、現在すべての梅の木が伐採されることになってしまいました。

吉野梅郷へは、春は花粉症があるため、まだいったことがなかったのですが、地元だけでなく、広く知られた場所であるだけに、できるだけ早くまた梅林が復活することを願っています。


そんな吉野梅郷のある日向和田駅から、宮ノ平駅の周辺は「神代橋」と「和田橋」という、紅葉の美しく見えるポイントがあります。

また、宮ノ平には昭和の前期から戦後にかけて活躍した地元の代議士津雲国利が残した「臨川庭園」という小さな庭園も保存されているということなので、ちょうど綺麗な季節だからと思い、いってみることにしました。

青梅から日向和田へは、青梅駅から「奥多摩」行きの電車に乗って二駅。

六分ほどで到着します。

駅を降りると「ようこそ吉野梅郷へ」の看板が出迎えてくれますが、今は梅の木がなくなってしまっただけにやはりさびしさを感じます。


ここから「神代橋」はもう目の前に見えているのですが、そのそばにある「へそまんじゅう」の看板が気になってしまい、まずはここのおまんじゅうと、駅の向かいのパン屋さんで軽く腹ごしらえしていくことにしました。

こうしたのんびりした時間も東京にいるとなかなか味わえませんが、青梅を過ぎるとやはりどこか空気も違い、清々しい気分になります。

「神代橋」からの眺めはこんな感じです。



日向和田のあたりの紅葉

紅葉はちょうど見頃(11月30日)だったようです。

雲が多く、少し遠くの方はけぶっていますが、多摩川の流れも穏やかなようでした。

ここから宮ノ平方面へと移動します。

途中、商店街で福引をしていた子供がどうやら一等賞を当てたようで、町内会の人たちから「よかったね! 今夜はご馳走だよ!」と、高級肉をもらってお母さんと喜んでいて、なんともほほえましかったです。

そして、歩いて十五分ほどで下流の「和田橋」へと到着。


宮ノ平あたりの紅葉

紅葉もその年によって、土地の当たりハズレがどうしても出るものですが、今年の青梅はまずまずよかったようです。

続けて臨川庭園へ向います。

臨川庭園は青梅出身の代議士津雲国利が別邸として造ったもので、その死後は青梅市に寄贈され、現在は一般に公開されています。
もともと、青梅は明治時代から「自由民権運動」の活発な土地で八王子、羽村、武蔵五日市などともに近世多摩地域の政治運動の中核となっていた土地でした。


とくに青梅は自由党の板垣退助がたびたび訪れていたこともあり、羽村とともに急進的な民権運動の闘士が多く出たため、これらの活動家は「三多摩壮士」と呼ばれ、その影響力と行動力は中央政界にも大きな影響力を持っていたといいます。

こうした集団がとくにこの土地で拡大した背景には、もともと日野や八王子、調布からは「新撰組」の隊士が多く出ていたことなどからもわかるように、多摩地域は「八王子千人同心」をはじめとする幕府よりの人々が古くから居住していたため、それが必然的に薩摩、長州を中心とする明治政府への反感にも影響していたのでしょう。


臨川庭園の主である津雲国利はそうした三多摩の気風を幼い頃から受けて育ち、昭和三年に初の普通選挙による総選挙で立憲政友会から出馬し、政界入りを果たしました。


当時は関東大震災からの復興のさ中にあって景気は冷え込み、対外的には昭和六年の満州事変をはじめとする関東軍の独断専行。国内では5・15事件、そして昭和期最大の政変となる2・26事件が起こるなど、混乱、混迷の極致にあった時代です。


国利はこうした時代の中で、軍部に近い立場をとり、翼賛議員同盟の理事を務めるなどしたことから、戦後は選挙で再選を果たしたものの公職追放にあいます。その後は再起をはかるも、選挙でも戦前ほどの支持を得られず、対立候補に敗れて落選することもしばしばだったそうで、結局昭和38年の落選を期に政界から引退しました。


青梅 津雲邸のホームページより

http://tukumo-tei.omjk.jp/


臨川庭園はそうした激しい時代の中にあって、国利の良い癒やしの場所となっていたようです。


庭園の中心にあるのが邸宅。

おそらく、以前はもっと大きな建物もあったのでしょう。

ここは紅葉もやや早かったのか、すでにかなりの葉が散ってしまっています。

しかし、紅葉は何も木にあるときばかりが見頃というわけでもありません。

この時期にだけ見られる地面を赤く染める紅葉の絨毯も美しいものではないでしょうか。


臨川庭園1

ここへ来るまで「代議士の別邸」といって、正直あまり期待はしていなかったのですが、庭園を見ているうちに段々と気持ちが変わってきました。

庭園というのも、造った人間の好みがあらわれるものですが、ここは人に見せようという派手さはなく、自然の景観を活かしながらも四季の変化が楽しめるように考えられ、使っている石や灯籠はきちんとしたものながらも調和があるため、質素な感じを受けます。


臨川庭園2

おそらくこの庭園の主はこの土地をかなり愛していたのでしょう。

どちらかといえば今でいう右翼的な政治家だったようですが、私自身もだいぶ右よりですし、また同じ多摩の育ちだけにどこか感じるものもあるのかも知れません。

「臨川」の名前の通り、庭園からは多摩川の清流を眺めることもできます。


臨川庭園3

川にもそれぞれ表情がありますが、多摩川はどちらかといえば激しい川だろうと思います。古来からしばしば氾濫して、とくにこのあたりの地域の人々を悩ませてきました。

しかし、平時にはこのように美しい清流がとうとうと流れていく音も心地よく、多摩の人々にとって特別な思い入れのある川であるのも違いありません。


臨川庭園4

また庭の変化を楽しむためか、こうした石臼や、置石の配置にもなかなか拘っているのがうかがえます。

こうした地面の景色というのもこの時期には面白いものです。


臨川庭園5

この庭園が気に入ってしまったので、青梅には国利の住居も現存しているとわかり、折角なので後日(12月7日に)そちらにもいってきました。


こちらは「津雲邸」といいます。


津雲邸1

実はこの津雲邸。

以前から青梅にあることは知っていたのですが、長年保存されるかどうかの目処もついておらず、これまで一般には公開されていなかったため、訪ねたこともありませんでした。

それがこの度、地元の協力と所有者の同意のもとで、修理、保存されることになり、現在は地元の有志、ボランティアによって公開されることになったそうです。


津雲邸 外

外壁はこんな感じでした。

なだらかな坂道の向うに奥多摩の山を望み、ここもまた臨川庭園同様に落ち着いた趣のある景色になっています。


津雲邸 広間

津雲邸の広間。

この家には戦後の政界を代表する池田勇人、佐藤栄作などもしばしば訪れたそうです。

奥にある皮のソファはそうした人々が座っていたものというので、私もちょっとお願いして座らせていただきました。

昭和初期の建築らしく、洋装と和装とが入り混じったものになっていますが、こうした時代の雰囲気というのも、やはり今ではなかなか見られないものではないでしょうか。

古い建造物や別荘が維持、管理の困難さから次第に少なくなっている今にあって、地元が率先してこういう場所を残そうとしているのは大変ありがたいことです。


津雲邸 茶室

こちらは一階の茶室。

臨川庭園を歩きながら、ただ庭を造るのが好きというだけではなくて、教養もかなりある人だったのだろうと思っていましたが、やはり美術品の蒐集などもされていたようで、広間には茶碗も唐津や楽茶碗などのいいものが展示されていました。

面白いのが床の間の狛犬。

この家、入口にも狛犬があるんですが、これは主人の好みだったのでしょうか。


津雲邸 二階

二階へ上がると、丸テーブルの向うに格子戸。

ゆるやかな冬の午後の日差しの中で、ここだけはまるで時間が停まっているような印象を活けます。


津雲国利というのが政治家としてどういう人物だったのかは、これはあまりよくはわかりませんけれど、少なくともこうした建築や美術にある程度の理解のある人物だったのではないかと思いました。

少なくとも、私には何か合うものはあったようです。

世間では今まさに衆議院選挙の真っ最中ですが、かつてこういう政治家がいた時代、といいますか、政治家が「地元の親分」であり、また「えらい先生」だった時代もあったんだというのを見ると、時代というのもやはりどんどん変化しているんだな思います。

そのどちらがいいかとか、そういう難しいことはわかりませんけれども、それは過去の記憶として、残っていいものではないでしょうか。


そんなことを考えながら津雲邸を出て東青梅の方へ歩いていたら「西分神社」という鳥居があったので、少しよってみることにしました。


西分神社

ここはもともと「妙見社」といわれていたそうですから、おそらくは妙見菩薩を祭っていたのでしょう。

境内にはまだ色づいた紅葉も残っていました。

人の営みは変化しても、自然はやはり美しいままに残ります。

そんなことを色々考えて歩いた青梅でした。



今回も読んでいただき、ありがとうございました。